中村 拓海
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DF

NAKAMURA Takumi

中村 拓海
  • 年齢25
  • リーグ戦
    総出場試合数
    127

PROFILE
プロフィール

  • 名前中村 拓海(ナカムラ タクミ)
  • 生年月日2001/03/15(25歳)
  • 出身地大分県
  • 身長/体重179cm / 70kg
  • ポジションDF

PLAYER'S HISTORY
インタビュー

<2026年8月7日 更新>

-幼少期-

大分県大分市出身で、男3人兄弟の真ん中です。サッカーを始めたきっかけは、1つ上の兄がやっていたからです。4歳か5歳ぐらいから始めました。最初から楽しかったですね。小学4年生で大分トリニータU-12に入りました。元々、兄の影響でトリニータのスクールに入っていたので、そこからU-12のセレクションを受けて合格しました。練習に行くのが楽しかったですし、ボールを蹴ったり、試合するのが楽しかったです。大分U-12での一番の思い出は、5年生の時、チビリンピックの九州大会の決勝で、0-1で負けていたのですが、兄が点を取って追い付いて、自分が決勝点を取って優勝して、全国大会に行ったことです。兄は基本的にサッカーも勉強も全部、自分より優れていたので、尊敬していました。サッカーも上手かったです。父もサッカーをしていたので、練習も付き合ってくれて、毎日、夜まで弟も含めた4人でボールを蹴っていました。そこで自然と技術も身に付いたと思います。小学生時代のエピソードで言えば、学年ごとのマラソン大会で1年生から6年生まで6年間、優勝したことです。特に走りの練習をしたわけではなかったですが、なぜか体力があって、最初から走れました(笑)。

 

-中学~高校-

中学は、そのまま大分トリニータU-15に上がります。セレクションはなく、6年生の時に上がれるか、上がれないか決まる感じです。このチームは個性的な選手が多かったです。自分の学年にも優秀な選手が多く、中学1年生、2年生ではBチームにいることも多かったのですが、Bチームのコーチだった梶原(公)さんに教わって、伸びた感覚があります。トリニータでプロサッカー選手にもなった方なのですが、そのコーチに毎日怒られながらも、自分にすごく合っていました。3年生になってAチームで試合にも出るようになったのですが、ポジションは左サイドバックでした。右サイドバックには1年からずっとAチームの試合に出ているような選手がいたので自分は左をやることになったのですが、左足のキックはこの年に磨かれました。トリニータU-15では技術を磨くとともに、走りのトレーニングも多かったので、メンタルも鍛えられました。高校へ向けては、トリニータのU-18に上がれるか上がれないか、保留の期間が続き、最終的にはU-18の練習にも参加して上がれることになったのですが、兄が東福岡高校に行ってプレーしている姿を見て、自分も東福岡に行きたい気持ちが出てきました。結局トリニータU-15は3年生の夏に辞めることになりました。兄は東福岡で1年からAチームにいて、毎熊(晟矢)選手が3年のチームだったのですが、選手権で優勝する姿も見て、憧れの気持ちが生まれました。小中に続き、高校も兄の後を追う形になりました。中学時代は兄と一緒に試合に出る機会はほとんどなかったです。ちなみに、中学生になっても走れたので、学校の駅伝部にも所属していました。即席の部活だったのですが、大分県で行われる駅伝大会にも出て、駅伝が強い高校から推薦も来ました(笑)。ただ、走ることよりサッカーの方が楽しかったので、陸上の道に進む気持ちはなかったです。

 

東福岡高校では、入ってすぐBチームの遠征に連れていってもらったのですが、その後は1年生のチームに戻って、基本的には1年生のチームにいました。部員の数が多いので、1年生はグラウンドの端の方で走ったり、少しボールを触ったり。週末には、1年生のチームと、Aチーム、Bチーム以外の2、3年生と紅白戦をすることもありました。2年生では学校生活で怒られることも多く、一番下のチームに落とされたこともありました(苦笑)。ポジションは右サイドバックとボランチをやっていたのですが、右サイドバックは兄もやっていて、「お兄ちゃんの方が上手いし、(試合に出れなくても)仕方ないか」という気持ちでした(笑)。高3で自分の代になってからは右サイドバック1本になり、試合にも出るようになりました。ただ、全国では結果を出せず、インターハイ、選手権ともベスト16で負けて終わりました。高校時代は3年間ほぼ毎日、毎朝5時に起きて練習して、授業を受けた後、17時半から20時ごろまで全体練習をして、その後も一人で自主練を22時ぐらいまでやっていたので、そこで技術も付いたと思います。もちろんプロには行きたかったですが、「一番、練習していた」と言えるぐらい練習をやった自負はあったので、「これだけ練習してプロになれなかったら、サッカー辞めたらいっか」という気持ちでした。転機は3年生の春に行われたサニックス杯です。この大会で活躍できたことで色んなクラブからオファーをもらい、練習参加することになりました。同時に年代別の日本代表にも呼ばれるようになり、少し自信も付きました。最終的に加入が決まったFC東京には、(当時のスカウトだった)羽生(直剛)さんに熱心に誘っていただきました。攻撃力や基礎体力を評価してもらったのだと思います。プロに行けると決まった時は、ホッとしました。

 

-プロ以降-

1年目はJ1では出られず、J3に所属していたFC東京U-23の方でプレーしました。練習はトップチームの選手と一緒にやって、週末はJ3の試合でした。長澤徹さんと佐藤由紀彦さん、2人のコーチに全体練習後も付き合ってもらって、ずっと練習していました。佐藤由紀彦さんはクロスが上手いので、技術的なことを学んで、徹さんからは、「考えるな」と言われたことが印象に残っています。「お前が見たところは間違っていないから」みたいな。徹さんはU-23の監督でもあったのですが、自由にプレーさせてもらいました。これまでのサッカー人生を振り返っても、この2人との出会いが一番大きかったです。長谷川健太監督も気にかけてくれて、J3の試合もホームはスタジアムに観に来てくれて、アウェイも映像で確認してくれていたので、監督が気になったことをグラウンドで指導してもらっていました。当時、トップチームの右サイドバックには室屋(成)選手がいました。代表にも入っていましたし、身体能力が高く、色んなことを学べました。2年目に、J1で17試合に出ました。室屋選手が夏に海外移籍で抜けて、(中村)帆高くんと競争するようになりました。でもライバルというよりは、タイプが違ったので、監督も使い分けるみたいな感じでした。自分は自分の良さを出すことを意識していました。もちろん、J1とJ3は違いましたが、攻撃はある程度やれる手応えも掴めました。守備での対人やクロス対応は課題で、長谷川監督にもずっと指摘されていました。3年目もJ1で18試合に出ました。この年は夏に長友(佑都)選手が加わりました。自分の課題だった1対1の強さをもっている選手だったので、お手本になりました。プロとしての在り方も学びました。セレッソに来て、香川(真司)選手とも似ていると思いました。FC東京時代を振り返ると、1年目からJ3に出る環境があり、指導者にも恵まれて、いい3年間でした。

プロ4年目の2022年は横浜FCに移籍します。強化部の昼田(宗昭)さんが「欲しい」と言ってくれたので、新しいチャレンジをしようと決めました。J1昇格という目標もハッキリしていたので、やりがいもありました。この年はJ2で32試合に出て、J1昇格もできました。ポジションは3バックの右をやりました。自分にとっては新しい経験だったのですが、監督が四方田(修平)さんで札幌みたいなサッカーだったので、攻撃に関わることも多く、攻撃力やパスを生かせて楽しかったです。ただ、攻撃と言ってもCBの一角なので、守備の意識も少しは強くなりました。横浜FCでの3年目、2024年は村井(泰希)さんというGKコーチに加えて土肥(洋一)さんもGKコーチとして来られたのですが、2人が自分に色々とアドバイスをしてくれて、練習も付き合ってくれて、成長できました。よく話もして、仲良くさせていただいたので、感謝しています。昨年、セレッソに移籍して、ピッチ外でも選手の皆さんが仲良くしてくれたので居心地がいいですし、サッカーも攻撃的で楽しいです。今シーズンから監督が代わり、これまでとやり方は違うので、新監督の求めていることを出せたらいいと思ってプレーしています。4バックでも3バックでもやるべきことは変わらないですが、3バックのウイングバックは、より前に行ける感覚はあります。(パブロ マチン)監督も、「持ったら仕掛けろ」「クロスを上げろ」という感じなので、やっていても楽しいです。もちろん、練習に臨む姿勢はこれまでも一貫してやってきたつもりです。その上で、今シーズンはもっと試合に出て、チームに勝利に貢献したい。それに尽きます。


CAREER
経歴

大分トリニータU-12→大分トリニータU-15→東福岡高校→FC東京→横浜FC→セレッソ大阪