PROFILE
プロフィール
- 名前畠中 槙之輔(ハタナカ シンノスケ)
- 生年月日1995/08/24(29歳)
- 出身地神奈川県
- 身長/体重185cm / 83kg
- ポジションDF
PLAYER'S HISTORY
インタビュー
-幼少期-
サッカーを正式に始めたのは、保育園を卒業してからです。同じ保育園の子のお父さんが少年団の監督をやっていたので、その子に「一緒にやろう」と誘ってもらったのがきっかけです。小学1年生で横浜すみれSCという少年団に入りました。初めてボールを蹴った時から楽しかったです。背も大きくて、人より遠くにボールを蹴れたことが嬉しくて、ハマっていった感じだと思います。少年団の活動は土日だけだったので、平日は水泳や空手を習ったり、別のサッカースクールにも行っていました。すみれSCでは、楽しくサッカーを教えてもらいました。GK以外は全部やりましたよ。ポジションはあってないようなものですが(笑)。そうした中で、4年生の終わりに東京ヴェルディジュニアのセレクションを受けて入りました。その1年前、3年生の終わりにも受けたのですが、その時は2次セレクションで落ちてしまい…。その後、ヴェルディのスクールに入って、4年生の夏ぐらいに、各スクールから数人ずつ上手い子だけが集まるスペシャルスクールというクラスに呼んでもらって、そこで半年間やりました。当時は、スペシャルスクールに入っている子はジュニアのセレクションは2次から受けることができて、2回目は受かりました。ヴェルディのジュニアでは、6年生の時に全日本少年サッカー大会、ダノンネーションズカップ、チビリンピック、バーモントカップと、タイトルを全部、取りました(笑)。ダノンネーションズカップはケガをしていて、1試合も出ていませんが、その他の大会は出ました。この代は強烈なメンバーが数人いて、その子たちだけで勝てたチームでした。僕はいるだけ、みたいな(笑)。すみれSCの時は一番点を取っていたし、一番上手かった自負はあったのですが、ヴェルディのジュニアに入ると、一番下。「こんな上手い子たちがいるんだ」と衝撃を受けました。でも同時に、「負けたくない」という思いも沸いてきて、何とか食らい付いて頑張りました。セレクションはボランチで受けて受かったのですが、入ってみると、ボランチには上手い子がいっぱいいたので、CBになりました。ここからずっとCBです。ただ、攻めたい気持ちはあったので、6年生や中学1年生の頃は、後ろからドリブルして攻め上がっていきました(笑)。この時、左CBの方がドリブルしやすかったので、それがきっかけで左のCBをやり始めました。ヴェルディのジュニアでの2年間で技術も磨かれて、相当成長したと思います。
-中学~高校-
ジュニアユースには、上がれるか上がれないかボーダーラインだったと思います。ギリギリだと思っていたので、上がれた時は嬉しかったです。6年生の時、俺らの代は14人いて、そのメンバーでタイトルを獲ったので、そのまま中学でも全員でやっていきたかったのですが、3人ぐらい落とされたんです。そこで仲間意識がさらに強くなった感じはありました。少し尖っていたので、ジュニアユースから入ってきた(平野)佑一とかは、馴染むのに大変だったと思います(苦笑)。中学での転機は、1年生の夏の終わりぐらいに西ヶ谷(隆之)監督に3年生のAチームに呼んでもらったことです。1年生と3年生ではスピードもフィジカルも全然違うんですけど、何とかしがみついてやっていくことで感覚も変わりました。3年生の試合に1年生が出ることはなかなかないので、周りから見られる眼も変わったのか、エリートプログラムにも選ばれて、自信が付きました。1年生で3年生に入って試合をするのは嫌でしたけどね(苦笑)。3年生からしたら、「誰、こいつ?」みたいな感じじゃないですか。その感じが怖かったんです。でも、意外と優しく声をかけてくれる先輩もいたので、そういう先輩に救われました(笑)。1年生から3年生の中でプレーできたことは大きかったですし、中学3年間でだいぶ自信は付きました。後ろからつなぐ今のスタイルも、ヴェルディで身に付きました。ヴェルディというクラブ自体がブラジルのサッカーが好きで、映像もよく見せられていました。コーチ室のデスクに、海外の上手い選手のプレーをまとめたDVDが置いてあって、「好きなのを選んで、持っていっていいよ」と。自分はビルドアップに長けたCBのプレー映像を何度も見ていました。「CBも守るだけではなく、攻撃の起点になれ」というスタイルのクラブだったので、中学3年間で足元の技術も身に付きました。
ユースにもそのまま上がれました。ちょうどこの年、クラブが経営難で揺れている時期で、何人かは高校サッカーに行こうとしていた選手もいたのですが、スタッフに説得されて、最終的にはみんな残りました。僕も「高校サッカーに行きたい」と言って、ある高校に練習参加しかけたのですが、結局、練習参加はせず、ヴェルディのユースに上がりました。高校でも1年生から3年生の試合に出させてもらいました。同級生も何人か一緒に出て、優勝した日本クラブユースサッカー選手権大会のチームには、スタメンに3、4人、1年生がいました。基本的に中学からずっと一緒にやっているメンバーなので、チームは出来上がっていましたし、強かったです。プロになった選手も多く、一つ上の先輩では中島翔哉選手、前田直輝選手、楠美圭史選手、安在和樹選手、吉野恭平選手、ポープ ウィリアム選手。二つ上にも、昨シーズン限りで引退した杉本竜士選手、モンテディオ山形の南秀仁選手、FC大阪の舘野俊祐選手、槙野(智章)さんが監督をやっている品川CCというチームにいる田中貴大選手。僕らの代も、高木大輔選手、安西幸輝選手、澤井直人選手、菅嶋弘希選手がプロになりました。2年生の時は高円宮杯 JFA U-18サッカーリーグプレミアリーグEASTでも優勝したのですが、そのチームは、スタメンが全員プロサッカー選手になるようなチームでした。ジュニアユースからユースに上がれなかった選手でも、プロになった選手は多いです。(平野)佑一もそうだし、札幌の青木亮太選手も同級生です。そうしたメンバーと中高で切磋琢磨することで成長できましたし、高校時代のチームもボールを握って戦うスタイルだったので、やっていて楽しかったです。トップチームの練習にも1年生から参加する機会があり、プロサッカー選手を目指す意識は明確になっていきました。3年生の夏が終わった秋ぐらいに正式にトップ昇格が決まりました。
-プロ以降-
1年目も、最初は少し手応えもありました。三浦泰年監督に気に入ってもらい、試合にも使ってくれそうな感じはあったのですが、キャンプの終わりにケガをしてしまい、そこからは戻っても周りとの差を感じ、挫折のような経験を味わいました。途中で、2年生、3年生の時のユースの監督だった富樫(剛一)監督に代わったのですが、当時の自分は体もメンタルもプロの基準ではなかったので、それを富樫さんにも見抜かれて、使ってもらえなかったです。結局、1年目の出場は2試合のみでした。プロ2年目も4試合に留まります。プロ1年目、2年目は、不貞腐れていましたね(苦笑)。今、思うともったいなかったですが、自分ではやれると思っていたので、「見返してやろう」という思いになりました。転機はFC町田ゼルビアへ期限付き移籍した3年目です。J2で29試合に出ました。町田もJ3からJ2に上がったタイミングだったので、選手を集めており、CBも枚数を揃えないといけない事情もあって、呼んでもらったのだと思います。当時の町田はハイラインのサッカーをやっていたので、走力が必要でした。僕は若かったし、走れたので、キャンプでハマったんです。開幕戦から出られました。それこそ開幕戦はセレッソとの試合でした。こっちはチャンスも作ったのですが、(キム)ジンヒョンさんに止められました。「これがJ1から来たチームか!」と思ったことを覚えています。ただ、負けはしたのですが、開幕戦で手応えを掴めた結果、そこからチームも勝って、一時は首位にもなりました。CBの選手が代わる代わるケガをしたこともあり、出続けることができて、1年を通して使ってもらいました。このシーズン、初めてプロサッカー選手になったことを実感しました。シーズン後は町田にも「残って欲しい」と言ってもらったのですが、やっぱりヴェルディでやりたかったですし、ヴェルディにも「帰って来い」と言ってもらえたので、1年で戻ることにしました。その17年はロティーナ監督と出会い、自分のサッカー観が変わりました。町田と全く違うスタイルで、同じつなぐスタイルでも、それまでのヴェルディのスタイルとも違いました。つなぐ理由や、つなぐための運び方、選択肢や考え方をしっかり学べた監督です。守備のラインは高くなく、裏のスペースをとにかく消す。攻撃は、ボールを握る。自分としては面白かったですね。ポジショナルプレーも初めて学びました。ロティーナ監督は守備の組織を作り、ビルドアップなど基本はイヴァン(パランココーチ)が指導していました。ボールを握ってチャンスも作れて、点も取れていたので、みんなロティーナ監督のことを信頼していましたし、チームに勢いもありました。元々つなげる選手が多く、若くて走れる選手も多かったので、それもチームがうまく回った要因だと思います。プロ初ゴールがアウェイの町田戦でした。町田戦はホームでも点を取りました(笑)。この年はJ1昇格プレーオフ準決勝で福岡に負けましたが、充実した1年でした。
ロティーナ監督の2年目も楽しくやれていましたが、夏にJ1の数チームからオファーをもらい、最終的に横浜F・マリノスに移籍することになりました。この年、マリノスはアンジェ(・ポステコグルー監督)のサッカーに苦労して、残留争いをしていたのですが、やっているサッカー自体は面白そうだなと。強化部の人と話をした時に、アンジェもその場に来てくれて、自分のプレーのいいところやよくないところを指摘してくれて、「ウチに来たらこういうプレーをして欲しい」ということも提示してくれたので、シンプルに嬉しくて、決断しました。このタイミングでマリノスに移籍したことは、サッカー人生の転機になりました。初めてのJ1は、やっぱり選手のクオリティーは高かったですし、プレースピードも速かったですが、意外とJ1の方がボールを握りやすかった。J2は、プレスは雑ですが、頑張れる選手が多いので、ガムシャラに向かって来る。J1は、“行く、行かない”がハッキリして、組織的にプレスをかけてくるけど、意外とボールは持たせてくれる。そうした違いは感じました。1年目は8月に加入して5試合に出ました。同じタイミングで入ったチアゴ マルティンスと、俺より少し早く入ったドゥシャンが使われていました。チアゴ マルティンスは上手かったからいいんですけど、ドゥシャンについては、「俺の方がいいだろ」とは思っていました(笑)。ドゥシャンが出場停止や退場で出番が回ってくるたびに、いいプレーをして試合にも勝ったんですけど、やっぱりドゥシャンが使われた。「何でだろう」と思いながら半年が過ぎました(笑)。アンジェのサッカーは面白かったですね。より攻撃的で、ハイラインも町田でやっていた分、感覚的なことは分かっていたので、そこまで難しくなかった。ビルドアップも求められて、楽しかったです。ちなみに、マリノスでのデビュー戦となった天皇杯でのベガルタ仙台戦で点を取ったのですが、アシストした(久保)建英に全部、持っていかれました(笑)。彼も初アシストだったので。逆に言えば、建英の初アシストだったので、映像ではいっぱい使ってもらったので、その意味では美味しかったです(笑)。
翌年の2019年はリーグ戦全試合に出て優勝しました。3月には日本代表にも選ばれて、最高の1年になりました。まずシーズンが始まる前に結婚して、「頑張らないといけない」という思いもありましたし、自分に自信を持っていたので、「あとは使ってもらうだけ」だと思っていました。開幕戦にガンバとやって、自分のプレーも良かったし、チームも勝って、自信になりました。代表発表前は3試合しかなかったんですけど、その3試合で2勝1分で、たまたま森保(一)監督が見に来たフロンターレ戦で活躍できたんです。俺じゃなくて、フロンターレの選手を見に来ていたと思うのですが、たまたま森保監督の目に入ったのか、呼んでもらいました。代表は不思議な感覚でしたね。それまでテレビで見ていた選手たちと一緒にサッカーをして、「ここにいていいんだろうか」という気持ちにもなりました(笑)。ボリビア戦でデビューしたのですが、香川真司選手と一緒に先発してプレーしました。遡ると、2019年は開幕前の宮崎キャンプで転機がありました。キャンプ最終日に行われたセレッソとの練習試合、僕はBチームの選手としてプレーしたのですが、そこでパフォーマンスを発揮できて、序列が入れ替わったんです。オフ明けの練習からスタメン組に入りました。なので、あの練習試合で運命が変わりました(笑)。チームとしては、昨シーズンからいいサッカーはやっていたと思いますが、19年はやっているサッカーに結果が付いてきたことで、より自信になりました。優勝という経験は最高でしたね。マリノスに入って、人生が変わりました。アンジェから言われて覚えているのは、「ピッチの中ではハングリーであれ」「引退してキャリアを振り返った時、どれだけタイトルを獲ったかがその選手の価値だ」という言葉です。ロティーナ監督もそうですが、自分のプレースタイルに合った監督に出会えたことは幸せでした。
2022年に2度目のリーグ優勝をしましたが、前年に負ったケガの影響で、あまり試合には出ていません。最後の試合もベンチに入れず、悔しかったです。翌23年も8月に大ケガをしてしまったのですが、ケガするまでは、最高のパフォーマンスを発揮できました。僕がケガして2位に落ちてしまったけど、それまではチームも1位にいました。22年の悔しさを全部ぶつけた感じです。マリノスでは、昨シーズン、ACLの決勝を戦ったことも印象深いです。最初に戦ったホームでケガをして、2週間で何とかアウェイに間に合わせたんですけど、アウェイでは違う箇所をケガして交代して、数ヶ月、離脱しました。チームにも迷惑をかけてしまったので、申し訳なかったと思います。ACLの決勝は、勝利したホームでは、相手は強かったにしても、めちゃくちゃ強いとは思わなかったんです。「ACLってこんなに簡単に獲れちゃうんだ」と思っていたら、アウェイでは全く別モノでした。チームも違うし、環境が凄かった。空気感が全く違って、圧倒されました。「ホームとアウェイでこんなに違うんだ」と、完全に飲まれました。優勝したかったですが、ACLを獲っていたら燃え尽きてしまっていたかも知れないので、逆に良かったかも知れないです(笑)。横浜FMでは6シーズン半を過ごしたのですが、出来過ぎでしたね。家族や友達もいる地元のクラブでこんなに素晴らしいキャリアを歩めて幸せでした。でも、もちろん、まだまだキャリアは終わりではないですし、ここからもっと登れると思っています。セレッソに来て感じることは、もっと練習から気持ちを出してもいい、ということ。チーム内でぶつかってもいいから、練習から高め合っていく雰囲気、ポジションを奪い合う緊張感を出していきたい。まだ少しそこが足りないと思います。優勝するチームの基準は知っているつもりなので、それをこのクラブでも共有したい。それがセレッソに来た僕の大きな仕事、責任だと思っています。クラブとしてのポテンシャルはありますし、選手たちのクオリティーも高いので、あとはいかに力を出し切れるか、競争力を高めていけるかだと思います。セレッソでもタイトルを獲りたいです。
CAREER
経歴
NATIONAL TEAM HISTORY
代表歴
PERSONALITYパーソナリティー
1 ニックネーム
シン2 利き足
右足3 足のサイズ(cm)
28.04 背番号へのこだわり
4が好きだから5 スパイクのこだわり
履きやすさ、靴の中で足がずれないスパイクを選んでいる6 試合前に必ずすること
スタジアムに入ってから髪をセットする7 自分のプレーの特徴
ビルドアップ8 遠征に必ず持っていくもの
香水9 オフの過ごし方
ゆったりのんびり10 ストレス解消法
ドライブ11 サッカーを始めた年齢
7歳12 サッカーを始めたきっかけ
友達に誘われて13 仲の良い選手/理由
小池 龍太選手/苦楽を共にした14 チームメートの意外な一面/内容
西尾 隆矢選手/見た目と裏腹に意外と礼儀正しい15 憧れの選手
セルヒオ・ラモス選手16 サッカーで一番大切にしていること
常にチームが勝つために、できることをする。17 今季対戦が楽しみなチーム/理由
横浜F・マリノス/自分を大きくしてくれたチームだから。18 今までで一番嬉しかった試合
マリノスでの2019年、優勝が決まった最終節19 今までで一番悔しかった試合
2024年ACLの決勝2nd20 将来の夢(サッカー面)
またリーグ優勝したい21 もしサッカー選手じゃなかったら
珈琲屋22 あなたにとってサッカーとは
人生23 今季の目標(サッカー目標)
優勝24 セレッソ大阪の好きなところ
明るくて仲がいい25 セレッソ大阪のイメージ
対戦相手としてやりにくいチームの1つだった26 ヨドコウ桜スタジアムの好きなところ
ピッチと観客の近さ27 どんな応援をされると嬉しい?
点を取ったり、身体を張って失点を防いだときにスタジアムが湧く瞬間が好き28 おすすめの地元飯
しゅうまい29 趣味・マイブーム
コーヒー30 自分の性格を一言で!
気分屋31 自分を動物に例えると
猫科32 生きていて1番ワクワクする瞬間
新しいことへの挑戦33 生まれ変わったら何になりたい?
他のスポーツ選手を目指したい34 座右の銘、好きな言葉
人生山あり谷あり35 初めての給料の使い道
親にプレゼントした気がする36 好きな芸能人/アーティスト/芸人(男性)
竹内涼真、Vaundy37 好きな芸能人/アーティスト/芸人(女性)
新木優子さん38 好きな女性のタイプ
芯が通ってる人39 好きな女性の髪型はショート派?ロング派?
ミディアム派40 好きなマンガ・アニメ・好きなTV番組・ YouTubeチャンネル
ワンピース、ワンパンマン、キングダム41 好きな季節/理由
春、秋/暑くなくて、寒くないから42 好きな音楽のジャンル
J-POP43 好きな食べ物
オムライス44 苦手な食べ物
パクチー45 この世で一番好きなもの
家族46 この世で一番怖いもの
怪我47 今一番欲しいもの
車48 最近嬉しかったこと
メルボルンで美味しいコーヒーを飲めたこと49 引退後にやってみたいこと
カフェ50 子どもの頃にやっていてよかったなと思うこと
水泳51 学生時代に得意だった科目
体育52 ほっとする瞬間
家に帰った時53 旅行に行くならどこに行きたい?
イタリア、フランス、ニューヨーク54 いつもつけている香水(銘柄等)
jomalone Blackberry&Bay cologne55 ファン・サポーターへひと言
最後まで共に闘いましょう!