大畑 歩夢
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DF

Ayumu OHATA

大畑 歩夢
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  • 年齢24
  • リーグ戦
    総出場試合数
    -

PROFILE
プロフィール

  • 名前大畑 歩夢(オオハタ アユム)
  • 生年月日2001/04/26(24歳)
  • 出身地福岡県
  • 身長/体重168cm / 65kg
  • ポジションDF

PLAYER'S HISTORY
インタビュー

-幼少期-

福岡県北九州市出身です。サッカーを始めたのは小学校3年生の終わりぐらいです。小学校で仲の良かった友達が何人か一気に小倉南FCに入って、そのタイミングで一緒に入りました。兄弟は兄が3人いますが、誰もサッカーはやっていません。最初にボールを蹴った頃の記憶は、ほとんどありません(笑)。サッカーをやっているというより、友達と一緒に遊んでいるという感覚でした。ただ、クラブ自体は強くて、小学校6年生の時に全日本少年サッカー大会に出ました。左利きだったので、ポジションは左サイドハーフでした。同級生には植中(朝日)選手がいました。

 

-中学〜高校-

中学も小倉南FCに上がります。中学でも練習はほぼゲーム形式で、遊びのような感覚というか、練習がきついと思ったことはなかったです。楽しくやっている内に技術も身に付いた感じです。九州では1位、2位を争うクラブで、中学でも全国大会に出ました。中学では、中2からボランチをやりました。中盤も楽しかったです。

 

高校からサガン鳥栖のU-18に入ります。中学時代、鳥栖U-15とは何度も対戦して、中3の1年間だけでも4回対戦したのですが、当時、鳥栖U-18の監督だった(キン)ミョンヒさんに声を掛けてもらいました。高校時代の練習はきつかったですね(苦笑)。大体、顔を知っているような九州の上手い子たちが集まるので、レベルも高かったです。これまでのキャリアの中で最も成長したと思う時期が、高校の3年間でした。走りもきつく、練習の強度も高い。大変でしたが、トレーニングを続ける内に自然と成長できました。左サイドバックを始めたのは高校1年生の途中からです。上下動がきつかったですし、それまでは左サイドハーフやボランチをやっていたので、最初はSBをやりたくない気持ちもあったのですが、途中からSBの面白さも分かり始めて、そこからプロになってもずっとSBなので、振り返ると、このポジション変更がキャリアのターニングポイントになったかも知れません。

 

高校1年生では、プリンスリーグ九州で優勝しましたけど、僕は出ていません。2年生でのプリンスリーグ九州は無敗で優勝しました。レギュラーではなかったですが、少し出ました。入れ替え戦(高円宮杯JFA U-18サッカープレミアリーグ プレーオフ)にも出ました。1年生の時の入れ替え戦で負けた姿も見ていたので、「今年こそ絶対に(プレミアリーグに)上がる」という気持ちで挑んだのですが、1回戦で負けてしまい、残念でした。3年生ではレギュラーを掴んでプリンスリーグ九州で優勝して、入れ替え戦も制してプレミアリーグに昇格できました。それまで2年連続で逃していたので、自分たちの代で最後に置き土産を残せて良かったです。高校3年生では、夏のクラブユース選手権でも決勝まで行って、準優勝しました。決勝の相手は名古屋だったのですが、僕らの代の名古屋は小学校時代から強く、石田(凌太郎)選手とか上手い選手がいっぱいいました。全日本少年サッカー大会でも1次ラウンドで対戦して、その時は1-1でした。高2から少しずつトップチームの練習に参加することもあり、そのあたりからトップチームでプレーしたい思いも出始めました。正式にトップ昇格を告げられたのは高3の夏ごろでした。嬉しかったですが、ここから、という気持ちの方が強かったです。

 

-プロ以降-

プロ1年目はケガが多く、あまり試合に絡めませんでした。この年(2020年)はコロナが流行って、グラウンドで練習できない期間も長かったので、林大地選手、森下龍矢選手ら大卒の選手とジムでトレーニングしていたことを覚えています。2年目はJ1リーグで30試合に出ることができました。体のケアをしっかりすることでコンディションも上がり、コンスタントに試合に出ることで自信も付きました。SBとして上下動できる体力も付いて、対人プレーも強くなっていきました。チームとしては、夏までは上の順位にいて良かったのですが、そこから落ちて、最終的には7位で終わったのは悔しかったです。高校時代、プロ1年目、2年目と指導していただいたミョンヒさんは厳しさもありましたが、一人一人を見て、成長させてくれる監督でした。高校まではとにかく頑張る、という感じでプレーしていましたが、プロになって、ポジションを取ってサッカーすることを学びました。

 

プロ2年目が終わった後に浦和レッズからオファーをもらいました。色んな人に相談して、チャレンジしようと移籍を決めて、2022年から3シーズン、浦和でプレーしました。1年目はその前年の11月に第五中足骨を骨折した影響もあり、キャンプは全てリハビリに費やしたので、シーズンが始まってからも少しずつコンディションを戻しながらのプレーが続きました。浦和での1年目はリカルド ロドリゲス監督でしたが、キン ミョンヒ監督のサッカーとも少し近かったです。この年はACLで準決勝まで出させてもらい、勝ち上がっていったことが印象に残っています。(決勝は翌年に行われた)。浦和での2年目は(マチェイ)スコルジャ監督、3年目は(ペア マティアス)ヘグモ監督、途中で再びスコルジャ監督と毎年監督が代わり、サッカーのスタイルも変わりました。個人的にも中足骨をケガして以降、なかなか鳥栖での2年目のようなコンディションに戻らない難しさもありましたが、浦和での3年間はACLで優勝したり、色んな経験ができたと思っています。昨年はパリ五輪にも出場できました。目標の一つだったので、嬉しかったです。ただ、準々決勝のスペイン戦ではボールが取れずに0-3で負けて、悔しい思いもしました。

 

今年の1月にベルギーのOHルーヴェンに移籍しました。海外でプレーしたい思いは鳥栖の1年目ぐらいから漠然と持っていましたが、実際に行ってみると生活も大変でサッカーのスタイルも合わず、難しかったです。それでも海外に残る選択肢もあったのですが、この夏、日本に戻ることにしました。決断は難しかった部分もありましたが、セレッソから話をもらい、パパス監督と面談して、監督の思いや自分に対する分析、自分のプレー映像も出してもらいながら、「セレッソではこう起用したい。このようなプレーをして欲しい」といったことも話してもらって、それが自分に刺さったので、このチームでプレーしたいという思いになりました。セレッソは攻撃的で面白いサッカーをするチームだと思っていましたし、自分自身、攻撃的にプレーすること、周りの選手と関わりながらビルドアップで崩していくことは武器。攻撃時のポジショニングはもっと学ばないといけないですが、サイドバックの位置からアタッキングサードに入って得点に関われることも強みだと思っているので、やりがいがあります。もちろん守備のポジションなので、失点しないことも前提に、攻撃のところで違いを出していけたらと思っています。ベルギーリーグは強度も高く、短い時間でしたが、より対人プレーでの強さも増したと思うので、そこも発揮していきたいです。セレッソは同年代の選手も多いので、馴染みやすいです。コンスタントに試合に出て、チームに貢献できたらと思っています。


CAREER
経歴

小倉南FC→サガン鳥栖U-18→サガン鳥栖※2種登録→サガン鳥栖→浦和レッズ→OHルーヴェン(ベルギー)→セレッソ大阪

NATIONAL TEAM HISTORY
代表歴

U-20日本代表、U-21日本代表、U-22日本代表、U-23日本代表