PROFILE
プロフィール
- 名前久保 瑛史(クボ エイジ)
- 生年月日2007/09/01(18歳)
- 出身地神奈川県
- 身長/体重180cm / 73kg
- ポジションMF
PLAYER'S HISTORY
インタビュー
-幼少期-
サッカーを始めたのは3歳です。きっかけは、兄の影響です。他のスポーツも水泳など少しやっていましたが、あまり記憶はないです。ボールを蹴ることは最初から楽しかったです。兄がバルセロナのカンテラに入った2011年、4歳の誕生日(9月2日)ぐらいに家族とスペインに行きました。なので、記憶にあるのはスペインからですね。バルセロナにある複合型の施設でフットサルをしたり、小学校1年生、6、7歳ぐらいには(CE)エウロパというクラブに入りました。リーガ・エスパニョーラが創設された際の10クラブのうちの1つでもあるクラブです。7人制で、どちらかと言えば前めでプレーしていました。約1年間だけでしたが、楽しかった記憶と、キッカーを任されていたことは覚えています。技術も磨きましたし、練習を止めて、「この状況だと、どうした方がいいと思う?」という質問をコーチからされて、「こうした方がいいと思います」というような会話もしていました。なので、この頃から考えてプレーするようにはなっていました。幼少期、スペインには3年半ぐらい住んでいたのですが、兄の大会に付いていって、欧州の色んな国にも行きました。多様な価値観や文化に触れられたことは良かったと思います。カンプ・ノウで試合を見る機会もありました。シャビ、イニエスタ、ブスケッツ、メッシ、スアレス、ネイマールらがいた頃のバルサで、とても面白かったです。いい時期にスペインにいたなと思います(笑)。
2015年、僕が小学校2年生、タケ(久保建英)が中学校2年生になる年に家族で日本に戻りました。小2では、川崎市にある(FC)パーシモンという少年サッカーチームで1年間プレーして、小3からは横浜F・マリノスのプライマリーに入りました。1次、2次、3次とセレクションがありました。ポジションは、3年生の頃は覚えていないですが、4年生の頃は8人制で1-3-3-1の左ウィングでした。なぜか分からないですが、僕以外にもボランチの子がウィングをやっていました(笑)。5年生からはボランチやインサイドハーフでプレーしました。ウィングも楽しかったですが、ボランチをやりたかったので、嬉しかったです。シャビやイニエスタの動画もよく見ていました。ここから今に至るまで、ずっと中盤です。6年生から11人制になってコートも広くなり、僕は体の成長が遅い方だったので、そこで少し苦労しました。横浜FMのプライマリーでは県大会で優勝したり、神奈川県内では強かったです。
-中学~高校-
中学1年生からは横浜FMのジュニアユースに上がりました。内部セレクションがありました。プライマリーとは別に、スペシャルクラスというのがあって、その2つを合わせてセレクションをしました。それとは別に、外部から入ってくる子もいました。横浜FMのジュニアユースで過ごした期間は、ちょうど中1でコロナが流行り、自粛期間だったので、あまり思い出はないです。 チームの活動もストップして、個々で、室内でできるトレーニングをやったりするぐらいでした。学校の自然教室も中止になって残念でした(笑)。中2になって少しずつ制限も緩んで、練習もグラウンドでできるようになりました。トップチームの試合を見る機会もあり、畠中(槙之輔)選手のことも見ていました。何回かボールボーイとエスコートキッズもやったので、「日産スタジアムや三ツ沢(ニッパツ三ツ沢球技場)にいたんですよ!」という話も畠中選手としました(笑)。
2022年、中学3年生の8月に再びスペインに行きます。現地でレアル・ソシエダのアカデミーのテストを受けて、プレシーズンの大会にも出させてもらい、一度、日本に戻りました。そこで結果を待って、合格という連絡を受けたので、再びスペインに行きました。母がタケのサポートをしていたので、すでにスペインにいました。そこに僕も行って、3人で生活していました。日本と欧州は(年度が)ズレているので、学年としては、日本でいう中学3年生の9月から高校1年生の6月までカデーテAでプレーしました。ポジションは中盤でしたが、サッカーのテンポやボール保持の仕方では、横浜FMのジュニアユースでやっていた頃とはまた違ったので、慣れる必要がありました。
高校1年生の9月から高校2年生の6月までフベニールBでプレーしました。フベニールBでは、U-19のリーグとしては上から2番目のリーグ(1番上のリーグはフベニールA)でプレーしました。スペインのアカデミーのリーグは、国全体の中で5つか6つのリーグに分かれていて、レアル・ソシエダはビルバオ、アラベス、エイバルなどと同じでした。他にも街クラブが同じリーグにいたのですが、街クラブは最上級生(フベニールA)の選手もいたので、フィジカルの差を感じることもありました。高校2年生にあたる年、2024年の9月から今年の6月まではフベニールAでプレーしました。昇格するにあたって、特別なセレクションはなかったですが、フベニールAの練習に参加した際のプレーやフベニールBでのデータなども見られて、昇格できるか決まる感じでした。フベニールAに昇格する子、飛び級でステップアップする子、レンタルに出される子、放出される子など、4通りに分かれていました。フベニールAの1年間で一番、印象的だったのは、コパ・デル・レイ(スペイン国王杯)です。先ほど話した5つか6つに分かれている各リーグの上位4チームが集まって1番を決める大会ですが、初戦でバルセロナのフベニールAと対戦して、1-2で負けました。悔しかったですが、強かったな、という部分で印象に残っています。別の大会でレアル・マドリードのフベニールAとも戦ったのですが、バルセロナの方が圧倒的に強かったです。この国王杯でもバルセロナが優勝しました。指導者では、フベニールAの監督が印象に残っています。練習に臨む態度も学びました。ポジションはボランチもしくはインサイドハーフで、中盤でボールを奪われないことを意識してプレーしていました。ゲームメイクの部分は今にもつながっていると思います。高校時代の3年間、スペインでプレーして多くのことを学びました。自分の好きなサッカー観も磨かれましたし、ターンなど細かい技術も上達しました。守備に対する意識も変わり、技術や体格に対抗するズル賢いプレーも学びました。スペイン語に関しては、小さい頃に習得したのですが、日本に戻った空白の期間で忘れていたので、少しずつ取り戻す感じでした。現地の高校にも通っていたので、そこで思い出して話せるようになりました。ソシエダの選手たちともスペイン語でコミュニケーションを取っていました。ロッカールームでは「うるさい」と言われていましたね(笑)。家族もよく喋りますし、両親から「自分の意思を伝えることは大事だよ」という教育を受けていたので、しっかり主張することは当時からしていました。
-プロ以降-
スペインでのシーズンが今年の6月に終わり、向こうの高校を卒業したタイミングでセレッソ大阪の練習に参加する機会をいただきました。もしオファーをいただけたら行こうと決めていました。来シーズンも(レアル)ソシエダの育成組織でプレーを続ける選択肢もあったのですが、「このままだと良くない」とも感じていて、「日本に帰ってプレーする選択肢もある」と、両親と自分自身で考えました。スペインのサッカーはとても好きですが、今、僕に足りていない部分が強度だと思い、そのためには日本でプレーした方がいいと思いました。何より早くプロになれるなら、そのチャンスを掴むことは当然だと考えました。セレッソからオファーをいただけて感謝しています。進路についてはタケとも話して、「やりたいようにやればいい。自分で決めろ」と言われました。タケはもちろんサッカー選手として尊敬する存在ですし、アドバイスをくれたり、家族としても優しい兄です。
セレッソのサッカーはパスサッカーでハイプレス。切り替えの強度も高いですし、相手を苦しめることができるチームだと思っています。自分の得意なプレーは、ボランチの位置からボールを運んだり、相手をはがしたり、パスを出してゲームメイクすることですが、まずは監督に求められることをしっかりやりながら、自分の個性も出していきたいです。チームの雰囲気はとても明るいです。先輩方も可愛がってくれますし、皆さん話しかけてくれます。自分の性格としてもコミュニケーションを取ることは得意なので、馴染みやすいです。セレッソには、ピッチ内外でお手本になる素晴らしい先輩がたくさんいます。特に(香川)真司さんのことはドルトムント時代の活躍も映像で見ていましたし、W杯でプレーしている姿も見ていました。凄いなと思っていたので、今、同じチームで一緒にやっていることは、昔の自分に言ったら信じられないと思います(笑)。ボランチは層が厚いですし、皆さん上手いので、吸収できることもいっぱいあります。真司さんを始め先輩方のいいところを盗んで、少しでも多くの試合に関われるよう練習からアピールして、セレッソ大阪のために頑張ります。
