本間 至恩
19
MF

Shion HOMMA

本間 至恩
前のプレーヤーへ次のプレーヤーへ
  • 年齢25
  • リーグ戦
    総出場試合数
    -

PROFILE
プロフィール

  • 名前本間 至恩(ホンマ シオン)
  • 生年月日2000/08/08(25歳)
  • 出身地新潟県
  • 身長/体重164cm / 60kg
  • ポジションMF

PLAYER'S HISTORY
インタビュー

-幼少期-

サッカーを始めたのは何歳か覚えていないですが、お父さんがサッカー好きだったので、気付いたら家に小さいボールがあって、蹴っていました。

 

それが始まりです。保育園でもうアルビレックス新潟のスクールに入っていました。新潟駅の前にグラウンドがあって、そこに通っていました。小学校では、スクールに一緒に行っていた友達に紹介してもらい、南万代FCというクラブに入ります。3年生の時に、一度アルビレックス新潟のジュニアに入ったのですが、まだ出来たばかりで人数が少なく、自分たちの年代で試合をする機会が少なかったので、4年生でまた南万代FCに戻りました。南万代FCでの思い出は、4年生の時に新潟県のJA共済カップという大会で準優勝したことです。新潟の中でも結構、強いクラブでした。5、6年生では、転校したこともあって、朝日サッカー少年団というクラブに移ります。朝日サッカー少年団は南万代FCより田舎で人数も少なかったですが、上手い子もいて、楽しくサッカーをやっていました。小学校時代は、ポジションは特になかったです。ずっと攻めていました。ボールをもったら一人でゴールまで行く、みたいな(笑)。少年団で学んだことは、サッカーの楽しさやチームワークです。ドリブルは父に教わっていました。保育園から小学生までは、家でも練習していました。覚えているのは、「保育園を卒業するまでにリフティングを100回できたら、人気のゲーム機を買ってあげる」と言われたこと。卒園式の日に100回できて、買ってもらった思い出があります(笑)。あと、家では海外サッカーが観られたので欧州サッカー、特にバルサの試合をずっと見ていました。幼心に「真似したい!」みたいな思いで見ていたことを覚えています。

 

-中学~高校-

中学からアルビレックス新潟のジュニアユースに入ります。セレクションを受けて入りました。(受験者は)200人ぐらいいたと思います。

 

3年生の時、新潟のジュニアでプレーしていた当時の先輩もいて、レベルは高かったです。中学1年生と3年生では体格も違うし、僕は自分の学年の中でも小さい方だったので、フィジカルやスピードで苦労しました。その中でも、技術では負けていなかったので、勝負するならそこだなと、当時から思っていました。1年生の最後の方に10番を付けさせてもらい、3年生の終わりには、阿部航斗くんが高3高校3年生の代のU-18に交じってプリンスリーグ北信越にも出場しました。勝てば優勝が決まる最終節に出て、得点できて、自信になりました。この代の先輩たちが、新潟U-18としては初めてプレミアリーグEASTに上げてくれました。3年生の1年間は、今までのサッカー人生の中でも一番、楽しく伸び伸びプレーできた時期でした。1、2年生ではフィジカルやスピードで苦労したんですけど、3年生になってスピード感に慣れて、体が追い付くと、技術を存分に発揮できるようになり、ドリブルしても全く取られなかった。トップ下や左サイドハーフでプレーしていたんですけど、ギュンギュン抜くことができて、凄かったですね(笑)。今でもあんな風にプレーしたいと思っています。(笑)。U-15日本代表にも選ばれました。当時のチームには、セレッソ大阪U-15の瀬古歩夢選手、鈴木冬一選手、喜田陽選手がいて、彼らはだいぶやんちゃでしたね(笑)。その3人はずっと一緒にいたイメージです。でも、自分はわりと仲良くさせてもらっていました。当時の喜田選手は「ひなってぃ」と呼ばれていました(笑)。セレッソ大阪に来て久しぶりに会って、大人になっていましたね(笑)。

 

高校は新潟のU-18に昇格します。1年生では、開幕からプレミアリーグEASTの試合に出てプレーしていました。ただ、中学生と高校生ではまた体格も違うので、そこでまた一つ、壁まではいかないですが、苦労しました。技術ではやれても、スピード、フィジカルで負けてしまう、パワーが足りない。ただ、それも慣れてくれば戦えるようになりました。高校から寮に入り、朝と夕方の2部練でサッカー漬けでした。高2の4月に2種登録されて、ルヴァンカップの第7節・ヴィッセル神戸戦で、トップチームの公式戦デビューができました。一応、クラブ史上最年少でした。この試合の記憶としては、右サイドからダブルタッチで抜いてチャンスを作ったことは覚えています。技術ではやれるなと感じましたが、同時に、スタートから出てやるのはまだ難しいとも感じました。後に改めてこの時の映像を見たのですが、めっちゃ細いなと(苦笑)。一緒に入ったのが鈴木武蔵選手だったのですが、大人と子供でした(笑)。当時のトップチームの呂比須(ワグナー)監督は若手を使ってくれる監督だったので、試合に出ることができたのは、運も良かったと思います。「伸び伸びプレーして来い」と送り出してもらいました。トップチームの練習や試合を経験したことで、まだまだ足りないモノが多いと気付かされました。今、セレッソでトップチームのGKコーチをやっている稲田(康志)さんが、当時、新潟のGKだったのですが、シュート練習を受けてもらっても、全く入らなかった(苦笑)。プロのGKから点を取るのは難しいと思ったことを覚えています。選手の皆さんには、よくしてもらいました。カンペーさん(富澤清太郎)も寮に住んでいたのですが、めっちゃ優しくて、カフェにもよく連れていってもらいました。田中達也さんとも毎日一緒にシュート練習をして、スパイクももらいました。めちゃくちゃいい環境でした。高2の12月にドイツへサッカー研修に行きました。シュツットガルトのアカデミーで10日間、練習参加しました。3年生の夏にトップチーム昇格の内定をもらった時は嬉しかったですが、喜びよりも、「ここからだ」という思いの方が強かったです。9月にJ2デビューもできました。ホームでの(ツエーゲン)金沢戦だったのですが、後半アディショナルタイムに決勝点を決めて、勝利に導くことができました。今でもこの瞬間を超えるシーンはなかなかないですね。もちろん、その後も嬉しいことはいっぱいありましたけど、忘れられない瞬間です。アルビレックス新潟のアカデミーで過ごした6年間は、めちゃくちゃ濃かったです。

 

-プロ以降-

高校時代から、早くトップチームで試合に出て、プレーを見てもらいたいと思っていました。ただ、プロ1年目は、最初はなかなか出られなかったです。夏ぐらいまでは出ていません。自分ではやれると思っていても、監督から見たら強度やディフェンスの部分で足りないと思われていたのだと思います。フチさん(片渕浩一郎監督)は、3年生の時に試合に出してもらった監督で、感謝しています。ただ、プロの選手としては、フチさんから見たら何か足りなかったのだと思います。ディフェンスの部分や走ること、フィジカル面はずっと言われていました。監督は途中で代わってしまったのですが、それを改善しようと頑張っていたので、途中から出られるようになったのだと思います。出られない時期もいい経験になりましたし、半年プロでやって、プレースピードに馴染んだことで、少しずつ試合の中でも技術を発揮できるようになりました。ポジションはプロになってからはずっと2列目の左サイドです。2020年、プロ2年目は良かったですね。一気に伸びた感覚があります。プロの世界に慣れて、自信が付いたことが大きかったと思います。当時、めっちゃ細かったのですが、舞行龍ジェームズ選手、ロメロ フランク選手、新井直人選手が3人で毎日やっていた筋トレに入れてもらったんです。そこから結果が出始めました。夏にモト(中島元彦)が移籍してきたのですが、一緒にやってすぐ、「サッカーの上手い子が来たな」と思いました(笑)。どこでもできる器用な選手で、逆に「何で、これで試合に出られないんだろう」と、セレッソのレベルの高さも感じました。関西人で最初からグイグイ来たので、新潟にもすぐ馴染んでいました。ふたりとも寮に住んでいたので、他の若手選手ともみんな仲が良かったです。当時の監督、アルベル監督は、今のパパス監督とも似ているサッカーで、攻撃的にパスをつなぐスタイルでした。今のセレッソはゴールを取るためにパスをつないで、速く攻める感じですが、アルベル監督の方は、もう少しゆっくりというか、もっとつなぐ感じでしたが、似たサッカーです。自分は小さい頃からバルサを見て育っていたので、そういうサッカーがしたかった。そういうサッカーをやってくれる監督だったので、楽しくできました。新潟にとっても大きな年だったと思います。それまで新潟はカウンターがメインでしたけど、今のスタイルの土台を作ってくれた監督でした。J1昇格に近づいた時期もありましたが、最終的には11位で終わりました。

 

3年目もJ2リーグで32試合に出て、4年目の夏、7月にベルギーへ移籍します。ずっと海外でプレーしたい思いはありましたし、小さい頃から見ていた欧州チャンピオンズリーグに出たかった。クラブ・ブルッヘは、自分が行く前に3連覇しているようなクラブで、ベルギーでも強豪。チャンピオンズリーグに出場するクラブへ行けたのですが、なかなか試合に出られず、難しかったです。ベルギーのサッカーに適応する難しさもありましたし、選手のレベルも高かった。ピッチ外でも英語が喋れず、メンタル的にも辛かったです。日本人選手も、このチームにはいませんでした。同じ街には上田綺世選手がいましたし、タツくん(坂元達裕)とも車で30分ぐらいの距離だったので、仲良くしてもらっていました。ベルギーに慣れるために、最初はセカンドチームのクラブNEXTでプレーしました。2部リーグでしたが、ここで試合に出ました。ベルギーでも、技術はやれると思ったのですが、大きい選手が多く、フィジカルの差を感じました。念願のチャンピオンズリーグには、試合は見に行きましたが、ピッチには立てなかったです。1年目の最後、プレーオフの最終戦には途中出場して1得点1アシストできました。消化試合だったのですが、来季を見据えて、出してもらった感じです。そこで結果を残せたので、2年目はトップチームからスタートできました。ただ、2年目もトップチームではほとんど試合に出られず、カップ戦に少し出たぐらいです。結局、2年目もNEXTでのプレーが主でした。練習ではやれると思っても、足りない。一番、挫折した2年間でした。もっとやれると思ったし、快く送り出してくれた新潟の人たちのためにも、もっと活躍したかった。それが一番の思いです。ただ、行かないと分からないこともあったし、経験にはなっています。新潟の話をすると、小さい頃から育てていただいて、トップに上がってからも熱い応援をしていただいて、スタジアムでプレーしていても楽しかったです。「この人たちのために頑張ろう」と思えたサポーターでした。当時はずっとJ1でプレーしたいと思っていました。今はJ1でやれているので、頑張って欲しいです。今でもめっちゃ好きなクラブですし、僕自身、しっかりプレーして、新潟の皆さんにも試合で活躍している姿を見てもらいたいです。

 

昨年の7月、浦和レッズに移籍しました。最初は欧州の中でクラブを探していたのですが、なかなかいいクラブが見つからなかったので、日本でやり直す決心をしました。ただ、浦和でも試合に出られず…。加入してすぐ監督が代わってしまい、(ペア マティアス ヘグモ監督からマチェイ スコルジャ監督)そこも難しかったです。苦しい半年でした。自分の中では練習で良かったと思っても、試合には出られず、悔しさもありました。今、セレッソに来て、評価してくれる監督の下でプレーできているので、セレッソのために何か残したいです。パパス監督のサッカーは攻撃的で、めちゃめちゃ面白い。1点取られようと、2点取られようと、巻き返せる思いがチームにありますし、逆転できる力がある。サイドにもいい形でどんどんボールが来るので楽しいですし、自分のスタイルにも合っていると思います。セレッソはピッチ外でも馴染みやすい。先輩も優しいですし、みんなめっちゃ喋るので、面白いです(笑)。私生活も含めてカフェに行ったり、コミュニケーションは取れているので、それをピッチで表現したいです。ヨドコウ桜スタジアムでは、新潟時代、天皇杯で得点も決めて、いいイメージがありますし、スタジアムの雰囲気もめっちゃいいので、サポーターの皆さんの前でプレーして、活躍したいと思います。



CAREER
経歴

朝日SC→アルビレックス新潟U-15→アルビレックス新潟U-18→アルビレックス新潟(2種登録)→アルビレックス新潟 →クラブ・ブルージュ(ベルギー)→浦和レッズ→セレッソ大阪※期限付き移籍

NATIONAL TEAM HISTORY
代表歴

U-15日本代表 U-18日本代表