井上 黎生人
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DF

Rikito INOUE

井上 黎生人
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  • 年齢28
  • リーグ戦
    総出場試合数
    -

PROFILE
プロフィール

  • 名前井上 黎生人(イノウエ リキト)
  • 生年月日1997/03/08(28歳)
  • 出身地島根県
  • 身長/体重180cm / 77kg
  • ポジションDF

PLAYER'S HISTORY
インタビュー

-幼少期-

島根県の松江市出身です。サッカーを始めたきっかけは、父親がサッカーをしていて、3歳ぐらいから自然とボールを蹴り始めました。父も島根県の社会人リーグでプレーしていたので、試合にも連れていってもらい、同じチームのおじさんたちと一緒にボールを蹴っていた記憶もあります(笑)。小学校の低学年で、通っていた小学校のクラブ、雑賀JSCキッカーズに入りました。3年生からは玉湯SCというチームに移ります。玉湯SCは島根県でも有名で強かったので、「ここでやってみたい」と思い、家からは少し離れていたのですが、移ることにしました。全国大会にも出て、6年生の大会に4年生で出させてもらいました。体が大きい方だったので、使ってもらったのだと思います。この頃はトップ下やFWをやっていました。父もFWだったので、その影響もあったと思います。でも、「お前は守備の方が好きそうだったよ」と父には言われました(笑)。最初は前の方にいて、後ろに戻って守備をして、そこからまた攻撃に出ていくプレーをしていました。その後、父の仕事の転勤で、5年生の始めに滋賀県に転校します。最初は野洲JFCというチームに入り、小5の最後にRESTA FCに移籍します。通っていた小学校の同級生に誘われました。監督も実績のある方で、練習参加した時も楽しかったので、RESTAに移ることに決めました。島根県を離れて新しい環境にはすぐ馴染めたのですが、関西弁には少し戸惑いました(笑)。

 

-中学~高校-

中学生でもRESTA FCでプレーします。あまり強いチームではなかったのですが、一人、ナショナルトレセンにも選ばれるような上手い子がいて、その子を意識して練習していました。監督からも比べられて、泣きながら帰ったこともありました(笑)。でも、この子のおかげで高校は鹿実(鹿児島実業高校)に行くことができました。というのもRESTA FCの豊(とよ)監督が鹿実出身で、「この子を取るなら、僕も連れていってあげて」みたいな。おまけですね(笑)。なので、この子との出会いがサッカー人生最初のターニングポイントになりました。中学ではFWもやりながら、ボランチもやっていました。中学で初めて中盤をやりました。

 

高校では寮生活を送りました。寮生活は大変でしたね(苦笑)。何より大変だったのが洗濯です。洗濯機の数が少なく、1年生はなかなか順番が回ってこないので、必然的に寝るのが遅くなりました(苦笑)。あと、練習場が学校から少し離れていて、毎日、走って行くので鍛えられました。1年生の秋ぐらいからAチームに入れました。Aチームは全部で20人ぐらいですが、僕も合わせて5人ぐらい1年生がいました。僕らの代は強くて、高1の新人戦で7年ぶりに優勝しました。そこでみんな自信が付きました。2年生になると、僕らの代がほとんどスタメンになりました。ポジションはボランチでした。高校から本格的にボランチを始めました。高校3年間は基本的にずっと中盤で、センターバックにケガ人が出た時は少しCBもやりました。選手権には3年間、出ることができませんでしたが、高校3年生でインターハイには出ることができました。鹿実としては9年ぶりだったようです。ベスト8まで行ったこの大会では2得点を決めるなど、いい思い出が残っています。このインターハイがサッカー人生のターニングポイントです。ここで初めてプロを意識するようになりました。それまでは、プロになりたいとは思っていても、なれるという確信は持てずにいました。インターハイ後に何クラブか練習参加の話もいただいたのですが、高校を卒業した後は海外でプレーしたい思いもありました。中1で1ヶ月、ブラジル留学をして、その影響で、海外でプレーしたい思いが強くなったんです。ただ、高3の1月に、行く予定にしていた海外の話がなくなってしまい、大学の話も全部、断っていたので、「どうしよう」と焦りました(苦笑)。途方に暮れていたら、高校の進路を決める時と同様、ここでもRESTAの豊監督が動いて下さって、ガイナーレ鳥取の練習参加につなげてくれました。1月の半ばに行きました。2月の練習試合にも呼ばれて、ファジアーノ岡山との練習試合に出ました。その試合後に加入が決まりました。ホッとしましたね(笑)。鹿実での3年間は、サッカー面はもちろん、礼儀作法も学ぶなど、人間的にも成長させてもらいました。きつい、苦しいことも多かったですが、高校時代に走っておいて良かったなと思います。今も当時の貯金でやっています(笑)。OBにも遠藤保仁さん、松井大輔さんら偉大な先輩が多く、ガイナーレでプレーしていた時、知人伝いで遠藤さんから「J1でプレーしろ」という色紙をいただいて、めちゃくちゃ励みになりました。

 

-プロ以降-

プロ1年目はあまり試合に出ていません。監督やコーチに怒られながら黙々と練習に励んでいました。2年目も公式戦では1度もベンチに入れず、リーグの最終節だけ入れました。力不足でした。3年目が転機になりました。森岡(隆三)監督と出会えたことが大きかったです。守備の考え方が180度、変わりました。背丈も僕と同じぐらいで、「俺と似た部分がある」と言ってもらって嬉しかったですし、プレーもめちゃくちゃ上手くて、目標になりました。この年、最初はサイドバックでしたが、最後はセンターバックになりました。4年目はJ3リーグで30試合に出て、自信が付きました。途中で監督が代わり、須藤(大輔)監督になったのですが、「自分を過小評価するな」と言ってもらって、自信を持ってプレーできました。チームも3位になり、攻撃的なサッカーで楽しかったです。5年目はJ3リーグ全試合にフル出場できて、6年目もフルではなかったですが、リーグ戦全試合に出場しました。4年目で掴んだ自信をしっかりと試合で発揮できました。この2年間は監督が髙木理己さんだったのですが、髙木さんは1年目の時のコーチでした。当時は毎日、怒られていたのですが、監督としては2年間、全試合に使って下さったので、「あれは愛だったんだな」と分かりました(笑)。髙木さんはとにかくサッカーが大好きな方でした。映像を一緒に見て、「GKにボールが入った後の、(ハビエル)マスチェラーノがポジションを取るスピードを見ろ」と言われました。「全速力でやっているだろ?お前らはできていない」と。そうした細かい部分まで見てくれる人で、ポジショニングを早く取る大切さを学びました。この2年間は3バックの真ん中でプレーしました。ガイナーレでの6年間でプロとしての土台を作ることができました。試合に出られない悔しさから試合に出て自信を掴むまで、全部を経験できたので、感謝しています。鳥取でのベストゲームは、2020年のリーグ最終節、フェルナンジーニョ選手の引退試合です。僕も彼のアシストからゴールを決めたのですが、とてもお世話になった選手だったので、勝利に貢献できて嬉しかったです。また、この試合後にグラウンドで妻にプロポーズしました。試合前日、先輩に、「明日、プロポーズする予定です」と相談したら、「じゃあ、点を決めないとダメだよ」と言われて。フェルさんのアシストで決めたこと、勝ってプロポーズしてオッケーをもらえたこと。その両方で、すごくいい1日になりました(笑)。

 

プロ7年目、2021年にファジアーノ岡山へ移籍します。J3でしっかり結果を残して行けたので、カテゴリーが上がったJ2でしたけど、自信を持って行きました。1年目からJ2リーグで42試合、全試合フル出場できたので、有馬賢二監督に感謝しています。有馬監督はめちゃくちゃ熱い方で、お父さんのような存在でした。普段は温かく、サッカーを離れると柔らかいんですけど、サッカーになると笑顔が消えて、怒る時は怒る。オンとオフがハッキリしていました。セレッソにも在籍していた田中裕介さんからも色々な話を聞かせてもらいました。岡山では、上門(知樹)選手とも一緒でした。学年としては自分が一つ上でしたが、同じ1997年生まれで。ただ、お互いに人見知りで、岡山で一緒にプレーした1年間は全く話していません(笑)。翌年、お互い京都サンガF.C.とセレッソ大阪に移籍して、そこからよくご飯に行くようになりました。岡山はとても温かいクラブでした。僕がいた時期はコロナで声を出しての応援ができない時期でしたが、それでもサポーターの皆さんに支えてもらった印象が強いです。

 

シーズン後に京都からオファーをいただきました。サンガも12年ぶりのJ1で、僕も初めてのJ1。やっぱりJ1とJ2の差はありましたね。個のクオリティーが全然、違いました。残留争いをして、最終的には入れ替え戦まで行きました。ロアッソ熊本との試合だったのですが、相手のシュートがポストに当たったり、ギリギリの戦いでした(苦笑)。厳しいシーズンでしたが、ここで残ったことで、今の京都もあると思います。J1でのデビュー戦がセレッソ戦でした。今、思うと縁があったんだなと思います(笑)。チョウ キジェ監督とも縁があって、高校3年生の時、湘南ベルマーレの練習に参加した時の監督がチョウさんでした。怖いイメージがありましたが、実際にチョウさんのもとでプレーすると、とても熱い方で、残留争いでしたけど充実感がありました。J3からJ1まで這い上がれた理由ですか?やっぱりハングリー精神じゃないですかね。ガイナーレでの1年目は給料も低く、シェアハウスで10人以上と一緒に暮らしていたのですが、「絶対にこの生活から抜け出してJ1に行く」と決めました。ガイナーレに来た選手で、J1でもプレーしていた選手に話を聞くと、「J1は環境が違う」と。そういう話も聞いて、よりJ1でプレーしたい欲が沸いてきました。2018年から妻と付き合い始めたのですが、しっかり養っていきたいと、それも大きなモチベーションになりました。

 

京都での2年目もJ1リーグ28試合に出て、チームとしてもチョウさんのサッカーが固まり始めて充実感はあったのですが、2年目が終わった後に浦和レッズからオファーをもらいました。こんな大きなクラブに行けるチャンスは滅多にない、ということは分かっていても、ポジション争いに割って入ることの難しさも理解していたので、即答できず、悩みました。色んな人に相談しましたが、最終的には、森岡監督とク ソンユン選手、この2人の言葉で決めました。正直、浦和での1年目は今までで一番、苦しいシーズンでした。初めて経験することがたくさんあって、頭の中で整理してプレーすることが難しかった。ただ、浦和に行ったことに後悔はしていないですし、CBのアレクサンダー ショルツ選手とマリウス ホイブラーテン選手と一緒にプレーして学んだことも多かったです。先輩方も素晴らしい選手がたくさんいて、プライベートでは、西川(周作)さんや関根(貴大)さんによくしてもらいました。プレー面でのアドバイスももらって、感謝しています。

 

浦和で2年目の今季はキャンプからコンディションも良く、昨シーズンのことも整理できて、「絶対に結果を残す」という強い気持ちで臨んだのですが、ダニーロ ボザ選手が来て、なかなか試合に出られず、自分の問題でもあるのですが、悔しい時期を過ごしました。そんな中、この夏にセレッソからオファーをいただき、めっちゃ嬉しかったです。試合に出ていない自分に声を掛けて下さったことも嬉しかったですし、セレッソと試合をした時、すごく引き込まれる、魅力あるサッカーをしていると思っていたので。そんなクラブからのオファーだったので、迷うことなく決めました。浦和では家族と離れて暮らしていたので、また大阪で一緒に暮らせることも嬉しいです。家族に「セレッソからオファーが来たよ」と伝えると、次女が「私が一番、好きなチームだよ」と。「そうなの?」って驚きました(笑)。一番下の子もピンクが好きなので、家族もみんな喜んでくれました。セレッソに入って感じた印象は、みんな仲がいいなと(笑)喋りやすいですし、合流初日に香川選手に「新加入選手は歌うか一発芸をする」と振られて、思い切って一発芸をやったらウケて溶け込めたので、真司さんに感謝しています(笑)。あと、祖母がスペイン人で、小学校5年生まで一緒に過ごして言葉も教えてもらっていたので、当時を思い出しながら、ニコ(髙橋仁胡)やエイジ(久保瑛史)が話していることを、耳を澄まして聞いています(笑)。知樹も今は別メニューですが、早く戻ってきて欲しいですね。パパス監督は常にコミュニケーションを取って下さいますし、監督のためにも勝ちたいと思える方です。自分の理想のディフェンダーは、鳥取時代に指導してもらった森岡さんです。プレー全般の能力が高く、弱点が少ない選手が僕の理想です。森岡さんは身長も自分と変わらず、クレバーなタイプ。少しでも近づきたいと思っています。ビルドアップも苦手ではないので、そこも向上させたいですが、セレッソは上手い選手が多いので、後ろの選手としては難しいことをせず簡単に預けて、自分は守備で貢献したいです。1試合でも多く無失点の試合を増やすことが僕に与えられている一番の仕事だと思っています。頑張ります。



CAREER
経歴

雑賀JSCキッカーズ→→雑賀JSCキッカーズ玉湯SC→RESTA FC→鹿児島実業高等学校→ ガイナーレ鳥取→ファジアーノ岡山→京都サンガF.C.→浦和レッズ→セレッソ大阪