PROFILE
プロフィール
- 名前吉野 恭平(ヨシノ キョウヘイ)
- 生年月日1994/11/07(30歳)
- 出身地宮城県
- 身長/体重182cm / 75kg
- ポジションMF
PLAYER'S HISTORY
インタビュー
-幼少期-
宮城県仙台市で生まれました。同級生の友達にベガルタ仙台のスクールに誘ってもらったことがきっかけで、小学校1年生からサッカーを始めました。それまでにもベガルタの試合や練習を見に行っていたのですが、実際に自分でも始めると、めっちゃ楽しかった(笑)。当時のベガルタは財前(宣之)さんがスターで、トップチームの練習を見に行った時にピッチに入れてくれたんです。「リフティングを10回できるようになれよ」と言ってもらって、嬉しくて、すぐ練習しました(笑)。2年生でFC. ASKという地元の少年団にも入りました。ベガルタのスクールと並行してサッカーを楽しんでいました。小学生時代のポジションはトップ下です。ボールを持って、好き放題やっていました(笑)。
-中学~高校-
中学ではA.C Azzurriというクラブチームに入ります。小学1年生から6年生までベガルタのスクールに通っていたので、自然とベガルタのジュニアユースにも入れるものだと思っていたのですが、セレクションに落ちてしまい…。小5から県トレにも選ばれていたので、「受かるだろう」と思っていたので、ショックというより、「えっ?何で?」という驚きの方が強かったです(苦笑)。「どうしよう」と思っていたところ、スクールコーチの高山さんという方がA.C Azzurriを紹介してくれて、拾ってもらった感じです。間違いなくここがサッカー人生の第1ターニングポイントです。このクラブはベガルタのジュニアユースを落ちた子たちが多く、そこまで強くはなかったのですが、コーチの西條さんという方が、「お前ら、ベガルタに落ちているのだから、このままじゃダメだぞ」と常に発破をかけてくれて、反骨心が生まれました。悔しくて、「ベガルタ(ジュニアユース)には絶対、勝つ」という意気込みで練習に励んでいる内に、練習試合でも勝てるようになりました。中学3年間で西條さんに「誰にも負けたくない」というメンタリティーを植え付けてもらったことが、本当に大きかったです。逆に言えば、ベガルタのジュニアユースに進んでいたら、甘えてプロになれていなかったかも知れません。小学生時代はずっと攻撃のポジションをやっていましたが、中学生からはボランチとCBをやるようになりました。西條さんからも「ボランチならお前はプロになれる」と言ってもらい、素直にポジション変更を受け入れる気持ちになりました。足元の技術やキックは小さい頃から練習して自信がありました。中学3年間でさらに上手くなったと思います。身長も中1から伸び始めて、今のプレースタイルの土台ができ始めたように思います。中3ではキャプテンもやって、クラブユース選手権(第24回日本クラブユースサッカー選手権大会)に出場しました。この大会が高校の進路を決める上で転機になりました。名古屋グランパスU-15や前橋FC(群馬県の街クラブ)と対戦して衝撃を受け、「全国ってこんなに広いんだ」と感じました。それまではベガルタのジュニアユースを見返したい一心でやっていたのですが、見ている世界が小さかったなと思い、「このままではダメだ」と感じて、この大会から帰ったその足で、両親に「高校は県外に出たい」と伝えました。そこからアルビレックス新潟(U-18)のセレクションを受けたり、横浜FC(ユース)の練習に参加したりしました。
新潟も横浜FCも受かったので、高校はどちらかに行くつもりだったのですが、最終的に東京ヴェルディのユースに入ることになりました。A.C Azzurriの代表をされていた鈴木さんという方に勧められて、練習参加することになったんです。鈴木さんは現役時代、読売サッカークラブでもプレーしていたので、当時のヴェルディユースのコーチをしていた中村忠さんともつながりがありました。当時のヴェルディユースは中学生から一緒にやってきたメンバーも多くて強かったので、最初は完全アウェイの空気で、「誰だよ、お前」みたいな冷たい視線を感じました(笑)。ただ、なぜか分からないですが、受かったんです。でも自分としては、正直、ヴェルディには行きたくなかった。彼らは高校生にして、立ち振る舞いがプロ。私服で練習にも来るし、トップチームと近いグラウンドで練習もしているから、意識がプロサッカー選手のようで、言い方は悪いですが、「生意気だな」と(笑)。入ってからも、「世界が違う」と3ヶ月で逃げ出しました(苦笑)。仙台に帰った後、中村コーチから連絡が来て、「帰りたくなったら、帰ってくればいいから」と言ってもらいました。親も「どっちでもいいよ。本当に無理なら帰ってきてもいいよ」と言ってくれたのですが、その時、「あ、戻らなきゃ」と思い、ヴェルディに帰りました。特に何事もなく、みんな優しく受け入れてくれましたね(笑)。そこから練習に励む内に、Aチームの練習にも入れるようになり、試合にもベンチに入ったりするようになりました。ただ、高校1年では、優勝したクラブユース選手権では試合を撮影する係や、雑用の仕事もしていました。2年生になって、始めから試合に出ることができました。連覇したクラブユース選手権にも出場しました。ポジションは中学生時代と同様、ボランチとCBです。年代別代表にも選ばれて、トップチームの練習にも呼ばれ始めたことで、次第にプロへの意識も高まっていきました。3年生では、トップチームの開幕戦のベンチにも入れてもらいました。当時のトップチームは濃い先輩ばかりで、怖かったです(苦笑)。森勇介さん、高原(直泰)さん、飯尾(一慶)さん、土屋(征夫)さん、土肥(洋一)さん。錚々たるメンバーの中で、巻(誠一郎)さんがオアシスでした(笑)。日本代表の経歴もあるのに、ご飯にも連れていっていただいて、優しく接してくれました。巻さんがいてくれて良かったです。3年生では、高円宮杯 JFA U-18サッカープレミアリーグEASTを負けなしで優勝しました。キャプテンにも指名されました。富樫さん(冨樫剛一監督)からすれば、尖っていた自分を役職に就かせることで、自覚を持たせる意味合いもあったと思います。それぐらい当時の自分はすっかりヴェルディの色に染まり、後輩からすれば怖かったと思います(苦笑)。後輩と言えば、一つ下の畠中(槙之輔)とCBを組むこともありました。畠中は当時から図太い性格で、堂々としていました。当時のチームには、(中島)翔哉とか技術に優れた選手が前線に多かったので、彼らをどう気持ち良くプレーさせるか、ということを考えていました。彼らを自由にプレーさせれば、結果的に自分も楽にプレーできる。技術を磨くことは大前提として、ボランチとして前のタレントをどう生かすか、ということを学んだ3年間でした。トータルで見て、ヴェルディのユースに入れて良かったです。一度は逃げ出したヤツがプロになることができたので(笑)。考えられないですよね。
-プロ以降-
プロ1年目は厳しかったです。「少しはやれるだろう」と思っていたのですが、スピードにも全くついて行けず、ダメでした。最後の方はちょっとずつ使ってもらったので(J2リーグ 9試合出場)、2年目は頑張ろうと思いました。ただ、その思いとは裏腹に、当時のヴェルディはお金がなくて、誰かが売られるかも知れないということを聞いていたら、代理人から連絡が来て、「サンフレッチェ広島に移籍することになる」と言われました。自分からしたら、「えっ?広島?」っていう話ですよね(笑)。前年にJ1で優勝して連覇していたチームだったので、試合に出られるわけがないと思い、「無理です」と言いました。そうしたら、広島に買い取ってもらって保有権だけ移した上で、ヴェルディにレンタルという形でプレーすることになったんです。海外ではよくあるみたいですが、日本では珍しい形でした。最初はヴェルディで試合に出ていたんですが、途中から出られなくなって、そうしたら広島が、「ウチに慣れるためにも早く来い」と言ってくれて、夏には広島に戻ることになりました。当時の広島はめちゃくちゃ強い時代で、試合には全く出られなかったので、ひたすら練習していました。その練習がとにかくキツかった(苦笑)。監督が森保(一)さんで、コーチが横内(昭展)さん。全体練習の強度も高い上に、若手は週に2日、2部練習があって、その2部練がキツい(苦笑)。フィジカル(トレーニング)も対人も、全てをやりました。でもその日々があったおかげで、ここまで長くプロとしてやって来られたのだと思います。広島はサッカーのレベルも高く、アオさん(青山敏弘)や森﨑兄弟を筆頭に選手全員からプロサッカー選手としての在り方、サッカーに向き合う姿勢を教わりました。皆さんピッチを離れたら仲いいのですが、いざピッチに入ったら要求も激しく厳しい。プロ2年目の自分にとっては衝撃の世界でした(笑)。この時期の広島は本当に強かったです。内容が良くない試合でも最後は勝つんです。まず森保監督がブレない。「絶対に大丈夫」と常に言っていました。選手もみんな、信じてやっていました。森保監督は練習からちょっとでも緩んだプレーを見せる選手がいたら、引き締める。試合に出ている選手、出ていない選手に関わらず、常に全員を見ていました。「やらなかったら使わない」ということも徹底されていました。
プロ3年目、広島での2年目は、年間勝点で1位になり、チャンピオンシップでも優勝しました。自分はリーグ戦には出られなかったのですが、そのことに全く不満はなかったです。ルヴァンカップと天皇杯は出られました。練習で鍛えてもらっていた分、いいプレーができたと自分では思います。広島での3年目、2016年にJ1デビューできました。この年はキャンプから調子が良くて、手応えがあったんです。千葉(和彦)選手が出場停止の試合で、リベロで先発しました。ついに一歩を踏み出せました。ACLでもFCソウルと対戦して、いいプレーができました。その試合を、当時京都サンガF.C.で強化部長をされていた野口(裕司)さんが見に来てくれて、京都に誘ってもらいました。同時にヴェルディからも誘われたのですが、ヴェルディに行ったら甘えてしまうと思い、京都を選びました。(7月に期限付き移籍)。このシーズンの最後はJ1昇格プレーオフ準決勝でセレッソとも対戦しました。先制された後、追いついて引き分けたのですが、(引き分けだと年間順位の上のチームが勝ち上がる)ルール上、準決勝で敗退して悔しかったです。翌年は、京都をJ1に上げたい思いもあったので、期限付き移籍を延長しました。34試合に出て、初めてシーズンをフル稼働できことは良かったですが、チームの成績自体はあまり良くなくて、そこまで印象に残るシーズンではなかったです。18年に広島に戻りました。この年は前回の在籍時とは違い、リーグ戦で18試合に出ました。こんなに出られるとは思っていなかったです。城福(浩)監督だったのですが、勝っていたら終盤に自分が出て試合を締めることが定番になりました。シーズンの前半はぶっちぎったのですが、後半はチームの調子が悪くなり、自分の出場機会も減っていきました。城福監督は見た感じのまま、熱い方でした。守備で「厳しくやらないと試合に出さないよ」というスタンスが明確でした。森保監督と同様、城福監督にも鍛えてもらいました。19年は開幕スタメンを取りました。最初は佐々木翔選手、野上(結貴)選手に助けられた感じでしたが、試合に出続ける内に経験も重ね、手応えも得ました。ただ、この年も途中から出番が減りました。シーズン序盤はサブ組にいた荒木(隼人)選手がACLで活躍して台頭し、彼にポジションを奪われました。広島では、最初の3シーズンは修行の期間で、京都で経験を積んで戻った2シーズンは試合に出ることができました。広島には「取ってくれてありがとうございます」という思いしかありません。試合に関わっていないとは言えJ1優勝も味わえましたし、プロで長くやるための土台を作ってもらいました。
2020年、広島との契約が切れたタイミングで、ベガルタ仙台へ移籍します。他のクラブからもオファーをもらっていたのですが、いつかベガルタでプレーしたい思いもありましたし、両親にもベガルタでプレーするところを見せたかったので。木山(隆之)監督からも「使いたい」と言ってもらっていたことも、ベガルタに決めた後押しになりました。色んな方から「お帰り」と連絡をもらって嬉しかったですし、地元のクラブでプレーできたことは良かったですが、ベガルタでの3年間はずっと苦しかったです。1年目は何とかJ1残留できましたが、2年目の2021年に降格してしまい、3年目も途中で監督が代わるなど、いいシーズンとは言えませんでした。この間、2回手術をして、自分自身のプレーも良くなかった。食事面でのコントロールもできておらず、体脂肪も増えました。3年経って、契約満了になりました。「マジか」と思った一方、プロとしてやるべきことができていなかったので、冷静に考えたら「そうだよな」と納得できました。この時、実はサッカーを辞めようとも思ったのですが、横浜FCに声をかけてもらい、最後に挑戦しようと続けることにしました。ヴェルディで強化部長をされていた昼田(宗昭)さんに誘われたのですが、「横浜FCでやれることをやって、ダメだったら引退しよう」と思って横浜FCに入りました。結果として、チームはJ2に降格してしまったのですが、個人的には試合にも出て、パフォーマンスもそこまで悪くなかったので、「まだやれる」と思える1年になりました。ベガルタでの3年目に出会った奥さんの影響も大きかったです。プロゴルファーでアスリートだったので、いつも背中を押してくれる存在でした。横浜FCに移籍したタイミングで一緒に住み始め、食事にも気を付けてもらうようになりました。トレーニングの面でも変わりました。今、セレッソでフィジカルコーチをされている生駒(武志)さんが、当時、横浜FCのフィジカルコーチをやっていて、「恭平、変えなきゃいけないぞ」と言ってくれて、練習後もトレーニングをしてくれました。体脂肪も少し減って、コンディションも良くなりました。セレッソで再会して、今の数値を見てビックリしていましたね(笑)。横浜FCに行って良かったです。
昨シーズンは、韓国Kリーグ1部の大邱FCに移籍しました。語学にも興味があって、サッカーをやっている内に、どこでもいいから海外のクラブへ行きたかったんです。「話があったらいつでも行くので言って下さい」と代理人には伝えていたのですが、ちょうど23年の12月、新婚旅行中のスペインで話が来ました。嫁は「行きたくない」と言っていましたが、自分としては念願の海外だったので、「行かせてくれ」と頼みました(笑)。韓国での環境は素晴らしかったです。クラブハウスも新しくてお風呂も綺麗だし、ご飯も3食出る。住んだ家の家賃も安くて綺麗で、生活面での不自由はなかったです。韓国語もめっちゃ勉強して、3ヶ月で通訳なしでコミュニケーションも取れるレベルになりました。ただ、サッカーでは12チーム中11位と苦しみました。最終的に入れ替え戦で1部に残ったのですが、大変でした。2試合とも出ましたが、敵地での第1戦は、歴史的な寒波に見舞われた中での試合で、足の先まで冷える環境の中、前半で0-3にされてヤバいと思ったのですが、後半に盛り返しました。結局、3-4で負けたのですが、希望をつないでホームに戻りました。ホームでの第2戦は、満員で試合前からいつも以上に熱い応援をしてもらっていました。そのおかげもあって、序盤から攻勢をかけて追いついて、最後は延長戦に突入して勝ちました。試合が終わった瞬間は、ホッとして涙が出ました。やっぱり助っ人として行っている以上、プレッシャーはありました。Kリーグの印象は、もっとフィジカルを生かしたサッカーをするのかなと思っていたのですが、意外と綺麗にやろうとするチームが多かったです。
生活に不自由はなく、チームにも溶け込めていた中で、今年の5月にセレッソからオファーをいただきました。めっちゃ嬉しかったですが、JリーグはKリーグより強度が高く、しかもセレッソはいいサッカーをしていたので、この中でプレーするのは難しいと思い、代理人にも一度はそのように伝えたのですが、「まだやれるから挑戦しろ」と言われて(笑)。しかもちょうど第一子が誕生したばかりで、奥さんも韓国で子どもを育てるのは大変だなと思っていたところ、セレッソから声を掛けていただいたので、「家族のためにも、自分のためにも、挑戦するしかない」という気持ちでオファーを受けました。大邱ではチームメイトに英語を話す選手もいたので、英語も勉強しました。なので、セレッソに入る前も、パパス監督と直接、話せたことは大きかったです。セレッソに入ってみての印象は、やっぱり選手のレベルも監督の要求も高い。練習もキツイですが、サッカーをしていて楽しいです。まだ成長できると思わせてくれます。施設も素晴らしく、ピッチ内外でレベルの高い環境でプレーさせてもらえることが幸せです。チームに入る前は、「関西人は怖いのかな?」と思っていたのですが、実際に入ってみたら、みんな仲が良くて元気で楽しいです。後輩もイジってきますし、すぐに溶け込めそうです。パパス監督のサッカーの印象は、常に攻撃的でアグレッシブ。「一歩も引くな」と言われます。周りからも、「セレッソのサッカー、楽しいね」と言ってもらうことが多いですが、やっていても楽しいです。自分のできることは限られていますが、監督からも「シンプルにやってくれたらいい」と言われています。攻撃では、味方を動かしながらパスをつないでリズムを作り、守備では強く行くことが得意なので、潰すところはしっかり潰していきたいです。経験も積んできたので、どんな状況でもいい準備をして、チームがいい方向に向かうようにプレーしたいです。少しでもチームの力になれるよう、早くこのレベルに慣れて、自分の特長を出していきたいです。一生懸命頑張るので、応援していただけたら嬉しいです。