岡澤 昂星
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28
MF

OKAZAWA Kosei

岡澤 昂星
  • 年齢22
  • リーグ戦
    総出場試合数
    113

PROFILE
プロフィール

  • 名前岡澤 昂星(オカザワ コウセイ)
  • 生年月日2003/10/22(22歳)
  • 出身地大阪府
  • 身長/体重165cm / 60kg
  • ポジションMF

PLAYER'S HISTORY
インタビュー

-幼少期-

サッカーに興味を持ったのは小学2年の夏です。最初は野球に興味を持って、父と甲子園へ行ったのですが、その日の夜にあった日本代表の試合を見て、サッカーの方が面白いなと。元々、父がサッカーをやっていたので、ボールは蹴っていましたが、本格的に始めたのは、地元の大和田少年SCに入ってからです。走るチームで、ずっと走っていました。そこで体力がついて、今でも役に立っています。当時の自分はFWで、ドリブルで抜いて、ゴールを決めるタイプでした。小学生の頃は、家でも食事以外はずっとボールを触っていました。小4の時にセレッソカップに出場して、そこでスクールのコーチからスカウトして頂き、小5からセレッソ大阪エリートクラス大阪西校に入りました。エリートクラスの子は上手い子ばかりでした。当時、大阪府のトレセンに入っていたんですけど、僕はCチームで、エリートクラスにいたのはAやBの子ばかりでした。


-中学~高校-

中学では、セレッソ大阪西U-15に行きました。大きかったのは2年です。いまアカデミーダイレクターをされている丸山(良明)さんが監督になり、僕を使い続けてくれました。当時、丸山さんからはずっと「普段の練習が試合に出る」と言われていて、どんなメニューでも手を抜かずにやりました。練習量では負けていない自信はありました。僕は上手いタイプではなかったので、家に帰ってからも練習して、量で補っていました。あと、どの練習でも、自分なりに意味を解釈して取り組んでいましたね。中学時代のポジションは、ボランチに変わりつつありました。小学生の時もエリートクラスでは中盤をやらせてもらっていたので、そこで細かい技術も学びました。中3では、丸山監督の指名でキャプテンもすることになりました。それまでチームをまとめるのは得意な方ではなかったのですが、キャプテンという立場に置かれると、自然と自分がやらないといけない。まずは自分がプレーで見せて、周りを引っ張る責任感が生まれました。中1ではスペイン遠征にも行かせてもらいました。ハナサカクラブ(育成サポートクラブ)のおかげで海外遠征にも行けて、感謝しています。

 

高校では、そのままセレッソ大阪U-18に昇格しました。レベルは高かったです。入ったばかりの頃は、練習に付いていくのに必死でした。高校でもポジションはボランチでした。この頃、身長が伸びないことが分かり始めたので、体の芯を作ることに取り組み始めました。高2では、U-23の試合に出させてもらい、プロとのレベルの差を感じました。高1から初めていた体幹トレーニングの成果は出始めている実感はありましたが、攻撃面では物足りなかった。途中から監督になった丸山さんからもずっと言われていたのは、「ボールを持った時に変化を付けられる選手になれ」ということ。ポジションは、ボランチ以外にも、左サイドハーフ、右サイドハーフ、右ウィングバック、左ウィングバックと中盤は全部やりました。ボランチに(喜田)陽くん、(松本)凪生くんと、お手本が2人もいたことは、自分の成長にもつながったと思います。高3になり、環境が大きく変わりました。まずU-23がなくなり、U-18のプレミアリーグに戻りました。体制も変わり、やっているサッカーも180度、変わりました。それまでは身体能力を生かしたサッカーをやっていたのですが、より技術を優先するサッカーになりました。僕は身体能力がそこまで高くなく、細かいところでパスをつなぐことが好きだったので、島岡(健太)さんが目指すサッカーにやりがいを感じていました。練習も変わりました。2人1組での“止める・蹴る”をずっとやっていました。「技術があれば世界で戦える」というのが風間(八宏)さんや島岡さんの考えで、それは自分がやりたいサッカーにも近かった。練習から「ここまで徹底するんだ」という驚きはありました。ただ、最初はプレミアリーグで勝てない時期が続きました。開幕5連敗した後、みんなで話し合いました。6試合目から良くなり、7試合目も負けたけど内容は良かった。その後の神戸戦で初めて勝って、手応えを得ました。勝てなくてもやり続けたことが、勝ちにつながったと思います。技術に特化した練習を続けることで、チームとしてもできることが増えて、相手に囲まれてもはがせるようになりました。試合中にも余裕ができて、ここから一気に4連勝できました。高3では、メンタルも強くなりました。開幕からリーグで7連敗して、全国も合わせたら10連敗。「キャプテンをしている自分のせい」と思い始めて、精神的にもしんどくなったのですが、金(晃正)コーチからは、「やり続けたら、今後のサッカー人生にも役に立つ。我慢してやり続けよう」という言葉をもらって、「やるしかない」と気持ちを切り替えることができました。新体制1年目のチームからトップ昇格したのは僕だけでした。だからもっと頑張らないといけないと思います。当時は大学進学も考えていたので、トップ昇格を告げられた時はビックリしました。親にもすぐ連絡して、話し合いました。かなり悩んだのですが、最終目標はプロであり、大学を経てまた同じチャンスがあるかは分からない。目の前にチャンスがあるなら、それを掴もうという決断になりました。


-プロ以降-

プロ1年目の昨シーズンは、ルヴァンカップで初ゴールを取って、天皇杯にも出させてもらいました。リーグ戦でもメンバーに入れてもらっていた状況でしたが、このままだと、奧埜選手や原川選手、鈴木選手には勝てないとも思ったので、どこかで自分に変化を与えなければいけない思いもありました。8月にブラジルのレッドブル ブラガンチーノへ期限付き移籍するお話を頂き、成長のために移籍を決断しました。ブラジルで一番、衝撃を受けたことは、ボールへの執着心です。1対1で抜かれたら後ろから引っ張ってでも止める。それが日常茶飯事で、練習でもそれがベースになっていました。食事や筋トレを見直したり、球際でも、タイミングをずらしたり、頭を使うプレーが増えました。攻撃では、ボールを持ったらまず前を向いて仕掛けるようになりました。最後は、U-20ですけど、コッピーニャと呼ばれるブラジルでも注目される大会で10番をもらって活躍できました。サッカー選手としても人間としても大きく成長できたと思うので、この移籍は僕のサッカー人生でターニングポイントになったと思います。ホームシックにはならなかったですね。毎週、日本にいる家族とビデオ通話もしていましたし、チームメイトも週末は家に招待してくれました。クリスマスや年越しも、チームメイトの家族と一緒に過ごさせてもらいました。自分自身、日本にいた時より周りに話しかけるようになりました。言葉も違う環境で揉まれることによって、人間的な部分でも成長できたと感じます。家族の大切さも改めて感じました。

 

ブラジルでの経験をしたことで、海外挑戦の重要性もより感じました。ブラジルでも、いい選手はどんどん欧州に行っています。自分もできるだけ早く欧州に出たいと思いました。そのためには、セレッソで結果を残さないと注目はされません。必死でプレーして、海外挑戦という目標を明確にしながら生活を送っていきたいと思います。セレッソに戻って、みんなにも快く受け入れてもらいました。大好きなセレッソに戻ってくることができて、嬉しい気持ちになりました。ブラジルに行く前は偉大な先輩たちに劣っている気持ちもありましたが、この半年で成長できたと思いますし、今は負ける気はないです。どんどん試合に絡んで、これからのセレッソを担える選手になりたいです。昨年は、離れてからも、セレッソの試合はチェックしていました。ルヴァンカップ決勝で負けた時は自分も悔しかった。今年は自分がピッチに立って、優勝させたい思いが強いです。将来的には、日本代表に入って、ワールドカップに出たいです。昨年、日本の戦いを見て凄く勇気と感動をもらいましたが、嫉妬心もありました。次のワールドカップには絶対出たいと思っています。その中で自分が活躍して、世界中に自分の名を知らしめたい。セレッソのアカデミー出身選手として、世界に羽ばたいて、下の世代につなげていくことが自分の使命だと思っています。プロサッカー選手を目指している選手に夢や希望、感動を与えられる選手になりたいです。


CAREER
経歴

セレッソ大阪エリートクラス大阪西コース→大和田SSC→セレッソ大阪西U-15 →セレッソ大阪U-18→セレッソ大阪 ※2種登録→セレッソ大阪→レッドブル ブラガンチーノ(ブラジル)※期限付き移籍→セレッソ大阪→FC琉球 ※育成型期限付き移籍→藤枝MYFC※期限付き移籍