岡澤 昂星
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28
MF

OKAZAWA Kosei

岡澤 昂星
  • 年齢22
  • リーグ戦
    総出場試合数
    116

PROFILE
プロフィール

  • 名前岡澤 昂星(オカザワ コウセイ)
  • 生年月日2003/10/22(22歳)
  • 出身地大阪府
  • 身長/体重165cm / 60kg
  • ポジションMF

PLAYER'S HISTORY
インタビュー

<2026年8月19日更新>

-幼少期-

サッカーに興味を持ったのは小学2年の夏です。最初は野球に興味を持って、父と甲子園へ行ったのですが、その日の夜にあった日本代表の試合を見て、サッカーの方が面白いなと。元々、父がサッカーをやっていたので、ボールは蹴っていましたが、本格的に始めたのは、地元の大和田少年SCに入ってからです。走るチームで、ずっと走っていました。そこで体力がついて、今でも役に立っています。当時の自分はFWで、ドリブルで抜いて、ゴールを決めるタイプでした。小学生の頃は、家でも食事以外はずっとボールを触っていました。小4の時にセレッソカップに出場して、そこでスクールのコーチからスカウトして頂き、小5からセレッソ大阪エリートクラス大阪西校に入りました。エリートクラスの子は上手い子ばかりでした。当時、大阪府のトレセンに入っていたんですけど、僕はCチームで、エリートクラスにいたのはAやBの子ばかりでした。


-中学~高校-

中学では、セレッソ大阪西U-15に行きました。大きかったのは2年です。いまアカデミーダイレクターをされている丸山(良明)さんが監督になり、僕を使い続けてくれました。当時、丸山さんからはずっと「普段の練習が試合に出る」と言われていて、どんなメニューでも手を抜かずにやりました。練習量では負けていない自信はありました。僕は上手いタイプではなかったので、家に帰ってからも練習して、量で補っていました。あと、どの練習でも、自分なりに意味を解釈して取り組んでいましたね。中学時代のポジションは、ボランチに変わりつつありました。小学生の時もエリートクラスでは中盤をやらせてもらっていたので、そこで細かい技術も学びました。中3では、丸山監督の指名でキャプテンもすることになりました。それまでチームをまとめるのは得意な方ではなかったのですが、キャプテンという立場に置かれると、自然と自分がやらないといけない。まずは自分がプレーで見せて、周りを引っ張る責任感が生まれました。中1ではスペイン遠征にも行かせてもらいました。ハナサカクラブ(育成サポートクラブ)のおかげで海外遠征にも行けて、感謝しています。

 

高校では、そのままセレッソ大阪U-18に昇格しました。レベルは高かったです。入ったばかりの頃は、練習に付いていくのに必死でした。高校でもポジションはボランチでした。この頃、身長が伸びないことが分かり始めたので、体の芯を作ることに取り組み始めました。高2では、U-23の試合に出させてもらい、プロとのレベルの差を感じました。高1から初めていた体幹トレーニングの成果は出始めている実感はありましたが、攻撃面では物足りなかった。途中から監督になった丸山さんからもずっと言われていたのは、「ボールを持った時に変化を付けられる選手になれ」ということ。ポジションは、ボランチ以外にも、左サイドハーフ、右サイドハーフ、右ウィングバック、左ウィングバックと中盤は全部やりました。ボランチに(喜田)陽くん、(松本)凪生くんと、お手本が2人もいたことは、自分の成長にもつながったと思います。高3になり、環境が大きく変わりました。まずU-23がなくなり、U-18のプレミアリーグに戻りました。体制も変わり、やっているサッカーも180度、変わりました。それまでは身体能力を生かしたサッカーをやっていたのですが、より技術を優先するサッカーになりました。僕は身体能力がそこまで高くなく、細かいところでパスをつなぐことが好きだったので、島岡(健太)さんが目指すサッカーにやりがいを感じていました。練習も変わりました。2人1組での“止める・蹴る”をずっとやっていました。「技術があれば世界で戦える」というのが風間(八宏)さんや島岡さんの考えで、それは自分がやりたいサッカーにも近かった。練習から「ここまで徹底するんだ」という驚きはありました。ただ、最初はプレミアリーグで勝てない時期が続きました。開幕5連敗した後、みんなで話し合いました。6試合目から良くなり、7試合目も負けたけど内容は良かった。その後の神戸戦で初めて勝って、手応えを得ました。勝てなくてもやり続けたことが、勝ちにつながったと思います。技術に特化した練習を続けることで、チームとしてもできることが増えて、相手に囲まれてもはがせるようになりました。試合中にも余裕ができて、ここから一気に4連勝できました。高3では、メンタルも強くなりました。開幕からリーグで7連敗して、全国も合わせたら10連敗。「キャプテンをしている自分のせい」と思い始めて、精神的にもしんどくなったのですが、金(晃正)コーチからは、「やり続けたら、今後のサッカー人生にも役に立つ。我慢してやり続けよう」という言葉をもらって、「やるしかない」と気持ちを切り替えることができました。新体制1年目のチームからトップ昇格したのは僕だけでした。だからもっと頑張らないといけないと思います。当時は大学進学も考えていたので、トップ昇格を告げられた時はビックリしました。親にもすぐ連絡して、話し合いました。かなり悩んだのですが、最終目標はプロであり、大学を経てまた同じチャンスがあるかは分からない。目の前にチャンスがあるなら、それを掴もうという決断になりました。


-プロ以降-

プロ1年目の2022年はルヴァンカップで初ゴールを取って、天皇杯にも出させてもらいました。リーグ戦でもメンバーに入れてもらっていた状況でしたが、このままだと奧埜選手や原川選手、鈴木選手には勝てないとも思ったので、どこかで自分に変化を与えなければいけない思いもありました。8月にブラジルのレッドブル ブラガンチーノへの期限付き移籍のお話を頂き、成長のために移籍を決断しました。ブラジルで一番衝撃を受けたことは、ボールへの執着心です。1対1で抜かれたら後ろから引っ張ってでも止める。それが日常茶飯事で、練習でもそれがベースになっていました。食事や筋トレを見直したり、球際でもタイミングをずらしたり、頭を使うプレーが増えました。攻撃では、ボールを持ったらまず前を向いて仕掛けるようになりました。最後はU-20ですけど、コッピーニャと呼ばれるブラジルでも注目される大会で10番をもらって活躍できました。サッカー選手としても人間としても大きく成長できたと思うので、この移籍は僕のサッカー人生でターニングポイントになりました。

セレッソに戻った2023年は、「ここからが勝負だ」という気持ちでチームを支えていこうと思っていたのですが、1試合も絡めず、自分が思い描いていた理想像とはかけ離れた半年になりました。そのまま残ってやるべきなのか、環境を変えるべきなのか、悩んでいました。「必要とされていないんじゃないか」という思いもあり、その現実から目を背けてしまう時間も長く、苦しい半年間でした。そうした中で、7月にFC琉球へ育成型期限付き移籍することになりました。琉球の喜名(哲裕)監督からも「今すぐ来て欲しい」という話もしてもらったので、オファーをいただいた翌日のフライトで沖縄に向かいました。J3という環境でしたが、試合にも出たかったですし、「自分を必要としてくれている」という思いを感じたので、カテゴリーは関係なく、即決で返事をしました。

琉球では、すぐに試合へ出ることができました。サッカーができる幸せ、スタジアムで観客が見守ってくれている中でプレーできる喜びがありました。9月に監督交代があったのですが、新しく来られた金 鍾成監督は、僕にとって恩師と呼べる監督になりました。「前を向け」ということをずっと言われましたし、練習から熱心に指導してもらいました。プライベートでも色んな話をしていただいて、サッカーだけではなく人間的にも成長させてもらいました。沖縄は初めての土地だったのですが、温かい人が多く、ウチナータイムと呼ばれるゆっくりした時間が流れていました。今後また住んでみたいと思う地域です。翌年の2024シーズンは育成型期限付き移籍を延長して、初めて1年間を通して試合に出続ける経験をしました。前年より勝負にこだわる気持ちも強くなり、「自分がチームの中心でやる」という自覚と覚悟を持ってプレーしました。ここでやらないとセレッソには戻れないという思いもありましたし、このクラブをJ2に上げたい、必要としてくれたクラブやサポーターに恩返しをしたいという気持ちも芽生えました。琉球では、より攻撃的なプレー、ゴール前に入って行く回数が増えました。バランスを取ってパスをさばくだけではなく、試合を決める選手になりたい意識は強くなりました。筋トレも質も高めて、体も一回り大きくなりました。順位としては、シーズン前半はJ2昇格も狙える位置にいたのですが、最後は失速して14位で終わり、自分の力不足も感じました。それでも、琉球では多くのファン・サポーターの皆さまに応援してもらい、愛情を注いでいただいて成長できたので、とても感謝しています。

2025シーズンは藤枝MYFCに期限付き移籍したのですが、琉球時代、ルヴァンカップで藤枝と対戦して勝って、その時から注目していただき、早い段階からオファーを出していただきました。自分の中では「もう1年、琉球でやりたい」という思いもあり、かなり悩んだのですが、J3とJ2では環境やレベルも違いますし、「セレッソに戻って活躍する」目標から逆算した時に、少しでも早く上の舞台でやることが大事だと思い、藤枝に行くことに決めました。藤枝での1年目は、最初は試合に出られませんでした。練習からレベルが高く、開幕して数試合は残り10分、15分ぐらいで出ることが多かったです。その中で、第8節のサガン鳥栖戦で、先発で出させてもらったんです。小菊(昭雄)監督や高橋(大輔)コーチがいて、気合いも入ったのですが、良いパフォーマンスができず、そこから2、3試合ベンチ外も続きました。厳しい年になりそうだな、という思いも内心あったのですが、セレッソで全く出られなかった2023年の半年に比べたら充実していましたし、あの経験があったからこそ腐らずやり続けることができました。連戦でターンオーバーした試合に先発で出て、良いパフォーマンスを出せてからは、残りの十何試合はずっと先発で出させてもらいました。精神的に強くなった1年でした。須藤(大輔)監督はとても戦術家で、練習から頭を使うメニューが多く大変でした。攻撃的なサッカーで、11人全員で攻めるスタイル。やっていても楽しかったです。ただ、技術的にはJ3で通用していたところがJ2では潰されることも多く、練習から先輩やスタッフとも話しながら改善に務めました。選手では、フィールドプレーヤーで最年長だった梶川(諒太)選手との出会いが大きかったです。ベテランの選手ですが、誰よりも早く練習場に来て走って、ジムでトレーニングしてから全体練習に臨む。身長は僕より小さくて体格に恵まれた選手ではないのですが、陰の努力というか、これだけ長い間プレーできるのはこういう積み重ねなんだろうなと思わせてくれる選手で、尊敬できる方でした。色んな相談もさせていただきました。そんな梶川選手を始めチームメイトにも恵まれて、クラブにもすぐ馴染めました。静岡県はサッカー王国なので、街中を歩いているだけで声を掛けていただくこともあり、地域密着で応援してもらっていることを感じました。今年の前半、百年構想リーグでは、1試合を除いて先発で出させてもらいました。デュエル勝利数とタックル数が1位でした。槙野(智章)監督からもキャンプから、「個の1対1を求める」と言われていたので、個で奪うことはトレーニングから意識していました。それが数字にも表れて自分の評価にもつながったことは良かったです。ポジションは3-4-2-1のボランチだったのですが、役割としては、どちらかといえばビルドアップになると僕が落ちて、後ろから運ぶ。逆サイドにサイドチェンジする。後ろから組み立てる方でした。ただ、チャンスになればゴール前に顔を出すことも狙っていましたし、半年で2ゴールを取れたことも良かったです。守備では自分で奪い切って、そこからまた攻撃の起点になることを意識していました。副キャプテンにも選んでもらったので、試合を引き締める役割も任されました。槙野監督は、今まで出会った監督の誰とも違っていました。ある程度、監督と選手は距離感があるのですが、槙野さんは兄貴というか、サッカーと違うことでも盛り上がって、誰より騒いでいました(笑)。でもサッカーになると厳しくて熱い。負けた試合の後は、現役時代にトップ・トップでやってきた方だからこその言葉が刺さりました。反骨心も芽生えて、見返してやろうという気持ちにもなりました。本当に良い関係性だったと思います。

振り返ると、セレッソを離れていたこの3年間は少し遠回りしたのですが、J3、J2という違った環境で色々な経験をして、苦しい中でも充実した時間になりました。セレッソのアカデミー出身選手として、またこのエンブレムを背負って戦えることを嬉しく思います。サポーターの皆さんには、前回とはまた違う変わった自分を見てもらいたいです。チームとしてはJ1で優勝したいです。歴代の先輩方のように、世界に羽ばたいて、下の世代につなげていくことが自分の使命だと思っています。プロサッカー選手を目指している子どもたちに夢や希望、感動を与えられる選手になりたいです。


CAREER
経歴

セレッソ大阪エリートクラス大阪西コース→大和田SSC→セレッソ大阪西U-15 →セレッソ大阪U-18→セレッソ大阪 ※2種登録→セレッソ大阪→レッドブル ブラガンチーノ(ブラジル)※期限付き移籍→セレッソ大阪→FC琉球 ※育成型期限付き移籍→藤枝MYFC※期限付き移籍