PROFILE
プロフィール
- 名前ジャクソン アーバイン(ジャクソン アーバイン)
- 生年月日1993/03/06(33歳)
- 出身地オーストラリア
- 身長/体重189cm / 78kg
- ポジションMF
PLAYER'S HISTORY
インタビュー
<2026年9月16日 更新>
-幼少期-
サッカーを始めたのは、オーストラリアに住んでいた5歳頃です。父がスコットランド人、祖父がオランダ人なのですが、祖父がチームを見つけてくれて始めました。今でこそオーストラリアはサッカーも盛んですが、当時は今ほどではなかったです。ただし、父も祖父もアマチュアでプレーしており、サッカーは身近にあったので、始めてすぐ夢中になりました。昔から今と同じようなスタイルです。走って、タックルして、ヘディングして勝つ(笑)。常に様々な局面で関わるボックスtoボックスのタイプで、闘争心を持ってプレーしていました。リーダーシップの面でも、若い頃からみんなを結束させて、ピッチでも中心になる、色んな人から信頼してもらう、味方が困ったら助けたい選手になりたい思いがありました。人とのつながり、チームメイトとの関係性は今でもずっと大事にしています。
-プロ以降-
17歳でスコットランドのセルティックに行きます。その経緯としては、当時プレーしていたオーストラリアのクラブ、フランクストンのコーチのいとこがセルティックで仕事をしていたことです。当時、私は年に数回、スコットランドの親戚に会いに行っていたのですが、「今度スコットランドに行く機会があれば、セルティックのスタッフを紹介するよ」とそのコーチに言っていただき、練習参加の機会をセッティングしてくれたんです。そこで1週間ほどプレーして、オファーをいただきました。父はセミプロとしてプレーするためにスコットランドからオーストラリアに移ったのですが、僕は逆になりました(笑)。セルティックでプロデビューできたのですが、思ったように試合に出ることができず、期限付き移籍をすることになります。その中の一つ、ロス・カウンティというクラブでカップ戦を優勝するという大きな成功を収めることができました。とても小さなクラブで、街中の人を集めても6,000人キャパのスタジアムが満員にはならない小さな街でした。優勝パレードをしたのですが、少し道路を往復したら終わりました(笑)。このクラブには2シーズンいました。1年目は残留争いでしたが、2年目にカップ戦で優勝してリーグ戦でも5位。素晴らしい経験ができました。サッカー選手としての基礎を作ってもらい、大きく成長させてもらったクラブです。スタイルとしては典型的なイングランド式の4-4-2でした。
翌16-17シーズンにイングランド2部、チャンピオンシップのバートン・アルビオンに移籍します。スコットランドでプレーしている選手は、セルティックとレンジャーズの強豪2クラブ以外の選手はみんなイングランドでプレーすることを目標にしています。当時、バートン・アルビオンは2部リーグ初挑戦で、僕の移籍金が当時のクラブ史上最高額での移籍でした。とはいえ、とても小さなクラブだったので、金額としては知れていますが(笑)。加入1年目、10ゴールを取ってチーム最多得点、選手投票でクラブの年間最優秀選手に選んでもらいました。シーズン前は周囲から最下位での降格を予想されていたのですが、20位で2部に残留することができました。このクラブにとっては大成功でした。そこでの活躍が認められて、翌年はハル・シティに移籍します。実は2年目も当初はバートン・アルビオンでプレーしていたのですが、ハル・シティが相手の試合で得点を取り、まだ移籍ウインドーが空いている期間だったのですぐにオファーがきました。試合をした翌週にはハル・シティに加入していました。その試合では点も取った一方で退場もしたのですが、気に入ってもらえたようです(笑)。ハル・シティでは3シーズンプレーします。それまでは毎シーズンのようにクラブを変えていたのですが、やっと同じクラブで数シーズンプレーできたので、僕にとっては大事な期間になりました。プレミアリーグに昇格することはできなかったのですが、この時期に妻とも出会いました。楽しい思い出がたくさん残っています。また、オーストラリア代表としての地位も築くことができたのもこの時期でした。
ハル・シティとの契約が終わり、半年間は無所属の時期がありました。21年の1月から5月までスコットランドのハイバーニアンというクラブでプレーして、21-22シーズンからドイツのザンクトパウリでプレーします。スコットランド、イングランドで合わせて12年間プレーしていたので、変化を求めていました。新しいチャレンジ、新しいフットボール、新しい文化を求めていたので、その意味でザンクトパウリは完璧な街でした。スタジアムは常にアメイジングな雰囲気で、ファンの情熱は欧州でも随一のクラブ。歴史上、ピッチで大きな成果は残せていないですが、オフ・ザ・ピッチの振る舞い、価値観で特異なクラブでした。僕も感情的にプレーするところがあるので、このクラブの気質とも合っていました。試合を中心に街が動く、地域に根差したクラブでした。3シーズン目の23-24シーズンに2部リーグで優勝して、1部昇格を果たします。クラブにとって大きな出来事でした。現在ブライトンで指揮をしている若き監督、ファビアン ヒュルツェラーに率いられた、良いシーズンでした。昇格が決まり、翌週に優勝が決まったのですが、その1、2週間は街中がパーティー、お祭り騒ぎでした(笑)。1部残留は2部優勝よりも達成が難しいですが、1部での1年目は14位で残留と素晴らしいシーズンになりました。得点数はリーグ最下位でしたが、失点数が2番目に少なかった。守備的に戦い、よく頑張りました。自分自身、アシスト数とデュエル勝利数がチームで1位でした。ブンデス1部でも十分にやれる手応えを得ることができました。しかし、1部で2年目の昨シーズンは残念ながら降格してしまいました。昇格2年目の方が難しいとはよく言われますが、1年目は昇格したポジティブな勢いそのままに戦えるのですが、2年目は足りないものが露わになってしまいます。2年目も最終節まで踏み止まっていたのですが、結果的に降格してしまいました。それでも、いつか世界の5大リーグでプレーしたい思いがあったので、そのチャンスを掴んでブンデス1部で2シーズンプレーできたことは良かったです。2シーズン目から昨シーズンまでキャプテンもやっていました。外国人としてキャプテンを任されることは珍しいですし、光栄なことでした。
セレッソからのオファーを受け、Jリーグでプレーしようと思った理由は、ザンクトパウリに移籍を決めた時と同じです。次のチャレンジを求めたい、刺激が欲しかった。その中で、日本は世界的に見ても素晴らしい国で、観光客として訪れた時もこの国の文化に感銘を受けました。サッカーの勢いも世界でトップクラスであり、どんどん強くなっています。Jリーグも競争力のあるリーグで、若いタレントもたくさんいます。そうした国、リーグに自分も身を置きたかった。セレッソから話をもらった瞬間、直観として、僕も妻もここなら自分が求めているモノが見つけられるのではないかと思い、加入を決めました。大阪、京都、東京を観光しましたが、東京はその規模の大きさに圧倒されました。京都は伝統と落ち着きを感じました。大阪はその両方がパーフェクトにミックスされていると思います。大都市でありながら、伝統や地元も大事にしている。美味しいレストランも音楽もあり、文化としてもバイブスが感じられます。大阪を観光した時、「ここに住みたい」という感覚になりました。
セレッソから話をもらった時、真っ先にアダム タガート選手に相談しました。彼とは15年来の親友で、代表で同部屋だったこともあります。彼が話したことは、「自分がプレーしてきたクラブでナンバーワン」だと。「在籍中はケガで上手くいかない時間も長かったけど、それでも素晴らしいクラブだった」と話していました。ランゲラック選手からも「日本に行けるチャンスがあるなら、行った方がいい」というアドバイスをもらいました。実際、日本に来てみると、チームメイトにも温かく迎えてもらい、とても良い印象を受けました。パブロ マチン監督とも良い話し合いができました。今あるチームの基盤に僕のクオリティーを加えて、次のステップに引き上げたいです。サポーターからも歓迎を受けて嬉しかったです。心の底から戦いたい、競争したい思いが湧いています。勝つために努力し続けてセレッソが経験したことのない最高のシーズンを送りたいと思っています。僕がチームを限界までプッシュして、戦えるチームにしていきたいです。
