横山 夢樹
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MF

YOKOYAMA Yumeki

横山 夢樹
  • 年齢20
  • リーグ戦
    総出場試合数
    -

PROFILE
プロフィール

  • 名前横山 夢樹(ヨコヤマ ユメキ)
  • 生年月日2005/09/22(20歳)
  • 出身地東京都
  • 身長/体重172cm / 67kg
  • ポジションMF

PLAYER'S HISTORY
インタビュー

<2026年8月7日更新>

-幼少期-

サッカーを始めたのは父の影響です。幼稚園の年中ぐらいですね。5歳ぐらいの頃に父(横山博敏氏)が(ブラウブリッツ)秋田の監督をやっていたので、試合を見に行った記憶があります。兄の(横山)歩夢もすでにサッカーをやっていて、小さい頃から歩夢と1対1をやっていました。父と歩夢と3人でボールを蹴ることもありました。父からは「基礎が大事」と言われて、トラップ・パス・ドリブルと、サッカーの土台となるベースは父に教わりました。小学校1年生で、地元の東京都世田谷区にあるFCトッカーノU-12に入りました。兄も入っていたので、その影響です。世田谷区では1番か2番に強く、東京都全体でもベスト8に入るぐらい強いチームでした。小学生になる前からボールを蹴ったり父に教えてもらっていたので、低学年の頃はアドバンテージがあったのですが、高学年になるにつれて周りに追い付かれて、実力を発揮できない時期もありました。小6の試合で初めてベンチになった時は、めちゃくちゃ悔しかったことを覚えています。ポジションは前で、個人技を磨きました。日本代表の試合は欠かさず見ていました。小3でブラジルワールドカップ、中1でロシアワールドカップがあり、当時、日本代表で活躍していた香川(真司)選手とプロで一緒にプレーしていることは不思議な感覚です。真司さんはいっぱいアドバイスをくれます。(百年構想リーグ第7節・ファジアーノ)岡山戦の翌日も、「(櫻川ソロモンのゴールをアシストした)ドリブルが(ジェイドン)サンチョに似ているね」と言われて嬉しかったです(笑)。「良い状態だったら何でもできるから、いかにその状態にもっていけるようにするか」というアドバイスをもらいました。出てくるワードも凄いですし、重みがあるので、学びになっています。(アシストした岡山戦のドリブルは)縦に行こうとして読まれたので、止まって考えて、逆を取った感じでした。感覚的には時間があったのですが、試合後に動画を見返したら、「こんな一瞬だったんだ」と思いました。プレー選択を瞬時に変えられることは自分の強みだと思います。中学生や高校生の頃はネイマール選手や三笘(薫)選手の動画をよく見ていました。ネイマール選手は爆発的なスピードがあるわけではないのに抜いていく。よく見ると重心の外し方が上手い。そこを学んでいました。三笘選手に関しては、少し前だったら齋藤学選手のカットインや中島翔哉選手の細かなドリブルも凄かったですが、三笘選手のようにあれだけスピードがあって縦に抜き去るタイプはあまりいなかったので、三笘選手が出てきてからは、ずっと三笘選手の真似をして練習していました。セレッソに来て、三笘選手とプレーしていたノボリさん(登里享平)からも、ボールの持ち方や運び方、顔の上げ方など、「こうしたらいいんじゃない?」というアドバイスも練習中からもらっています。今でもネイマール選手や三笘選手、(兄の)歩夢の動画は見ています。ただ、今は自分の形をどう作っていくか、ということの方が大事だと思っているので、真似するというよりは、楽しみの一つとして見ている感じです。

-中学~高校-

中学はそのままFCトッカーノU-15に上がりました。周りにはJクラブの下部組織に練習参加して決まる子もいたのですが、自分はどこからもオファーはありませんでした。小学生時代に話が戻りますが、実は小2の時に横浜FCのU-12強化カテゴリーのセレクションに受かりました。100人ぐらい受けて、受かったのは自分を含めて2人だけでした。なので小学生時代はトッカーノU-12と並行して横浜FCのスクールにも通っていました。小3から小6までどんどん人数が増えて、最終的に自分の学年は12人ぐらいになりました。そのほとんどが横浜FCのジュニアユースに上がったのですが、自分は上がれず落とされました。ただ、上がれなかったことに自分では納得していました。周りはみんな上手かったですし、当時の自分はドリブルこそしていましたが、そこまで抜けずに取られることも多かったので、仕方ないと。中学時代は中3でコロナが流行り、3ヶ月ぐらいチームで練習できず、この間、考えることがあって、「3年後にプロになろうと思ったら、今のままではマズイ」と思い、自主練をしまくりました。危機感から自主練に目覚めて、雨の日でも一人でやっていました。全体で練習ができるようになってからも、チームの練習がない日も友達と走って体力を付けたり、1対1をやったり、毎日、練習していました。それでも強烈な選手ではなかったので、高校進学にあたってはJリーグのユースチームから声は掛からなかったのですが、帝京高校に声を掛けてもらい、入れることになりました。

帝京高校では高1からAチームに入れましたが、公式戦にはあまり出ていません。1年生の中では一番出ていましたが、スタメンを目指していたので、悔しかったです。当時もドリブルを武器にはしていましたが、そこまでスピードもなかった。それでも、1年生だけで戦う関東のルーキーリーグには1年を通して試合に出続けて、その大会では得点王になりました。高校でのポジションは、サイドではなく2トップでした。高2になってもAチームの試合に絡めず、ひたすらドリブルや1対1の練習をしていました。高2のインターハイでは全国で準優勝したのですが、自分は試合に出られず、挫折のような経験でした。高2の選手権の東京都予選では準決勝で負けて、自分はその試合で途中出場、途中交代でした。なので、僕は傍から見たらプロに行くような選手ではなかったんです。プロは選手権に出て活躍するような選手が行く舞台だと思っていました。ただ、その途中出場、途中交代の試合が本当に悔しくて、そこでさらに火が付いて、朝練でも毎日ドリブルの練習をしていました。そうしたら翌年、新チームとして挑んだ大会で調子が良くて、1月にFC今治から練習参加のオファーが来たんです。びっくりしました。帝京高校の同級生、梅木怜と一緒に参加したのですが、怜は準優勝したインターハイにもスタメンで出ていたし、明らかに別格だったので、プロの練習参加にも呼ばれるのも必然だと、みんなが思う選手でした。自分はその付き添いで行ったような感じでした。ただ、この練習参加が自分にとって転機になりました。今治のボランチにケガ人がいたことで、大分トリニータとの練習試合では4-4-2のボランチをやることになり、「(本職ではないから)終わった」と内心思ったのですが、「とにかく自分の特長を出そう」と思って臨んだら、めちゃくちゃ良いプレーができたんです。ボールを持ったら全部仕掛けて、抜けて。その後のFCソウル戦でもスタメンで出て普通にやれて。そうしたらキャンプ中に今治が「すぐ欲しい」と言ってくれて、3月に加入が内定しました。なので最初は今治にはボランチとして入ったんです。周りの選手たちも自分のことをボランチだと思っていたと思います(笑)。でも、ボランチでプレーしたからこそボールを持ててドリブルできたのかも知れません。もしFWで出ていたら、相手に潰されて、良いプレーができず、今治には入れなかったかも知れません。運も良かったと思います。ただ、高3の夏に特別指定として1ヶ月、今治の練習に行った時は良いプレーができず、帝京に戻ってからも選手権の東京都予選では1点も取れずにチームも準決勝で負けるなど、プロ内定選手という注目に見合う活躍はできませんでした。10番を付けていたにも関わらず全国に連れて行くことができず、チームメイト、そして何より日比威監督に申し訳ない気持ちでした。高1の頃も、当時の10番の選手が風邪で出られなかった選手権予選の準決勝では自分に10番を渡してくれるほど期待してくれて、3年間、色々と面倒を見てもらったにも関わらず、その監督に恩返しできなかった。それは本当に申し訳ない気持ちでした。今でも連絡を取っていますし、セレッソに来るときも連絡しました。話を戻すと、今治に練習参加した後、高3になる前の2月、初めてU-18日本代表に選ばれました。ただ、このときは大学との練習試合でも何も特長を出せずに終わりました。このU-18日本代表はU-20ワールドカップを目指す代表の立ち上げだったのですが、「もう呼ばれないだろう」というのが最初でした。ただ、この立ち上げの代表に呼ばれて最終的に本大会でもメンバーに入ったのは、市原吏音、(石渡)ネルソン、自分の3人だけでした。U-20ワールドカップの前のミーティングで、「この2年間、110人ぐらいを呼んできた。その中の20人ぐらいが選ばれているから、自覚を持ってほしい」と船越(優蔵)監督に言われて、そんなに呼んでいたんだと改めて思いました。高校の頃を思えば、(メンバー入りは)考えられないことだと思いました。

-プロ以降-

2024年.今治でのプロ1年目はJ3リーグで29試合に出て6得点を決めました、第2節のツエーゲン金沢戦がJ3デビューだったのですが、途中出場、途中交代でした。ボールにほとんど触れなくて、ずっと守備で走り回っていたのですが、3-0で勝っていた状態で1点を返されたので、もっと守備ができる選手と交代になりました。「Jリーグのデビュー戦で途中出場、途中交代する選手なんているのかな」と思って落ち込みました。ただ、次の日の練習試合で良いプレーができました。すると、第4節にスタメンで使ってもらい、そこでJ3初ゴールを決めることができました。しかも2・3月度の月間ベストゴールに選ばれたんです。これまでのサッカー人生もそうでしたが、プロになってからも上がったり下がったりが激しい始まり方でした(苦笑)。続く第5節の岐阜戦は先発しましたが45分で代えられて、そこからはしばらく出られない時期が続きました。6月の松本山雅戦で3ヶ月ぶりにスタメンで出た試合でアシストして、そこからは先発に定着できました。点も獲れるようになって、7月と8月は2ヶ月連続でJ3月間ヤングプレーヤー賞も受賞しました。9月にはU-19日本代表のキルギスで行われた大会(U-20アジア杯予選)でも活躍できました。ただ、自信満々で代表活動から帰ってきた2試合目で肩を脱臼してしまい…。その時は肩を入れて治してもらったのですが、また抜けるのが怖くなって、ドリブルも上手くできず、キレもなくなりました。チームはJ2昇格できたのですが、自分はラスト数試合、プレーも良くなく、シーズン後に手術をしました(右反復性肩関節脱臼)。そこから3ヶ月ぐらいリハビリが続き、昨年は開幕10試合ぐらい出られませんでした。焦りもありましたし、「手術してもダメなのではないか」という不安もありました。実際、復帰してもなかなか調子が上がらなかったのですが、第11節の山口戦で途中から出て、相手をはがして斜め45度からカットインしてシュートを決めたんです。J2の舞台であのようなゴールを決めたことで自信になりました。そこからは「何でもできる」という気持ちになって、第13節の磐田戦でも途中出場から2点を決めて、一気に波に乗れました。U-20日本代表にも選ばれて、U-20ワールドカップでは開催国のチリ相手にゴールを決めることができました。完全アウェイの舞台で、この試合に勝ったらほぼ決勝トーナメント進出が決まる大事な試合。国を背負って戦う重みも味わいながら、チームを勝たせるゴールを決めることができたので、信じられないぐらい嬉しかったです。振り返ると、今治での2年間は濃かったです。プロになって強度が一気に高くなったので、スピードや瞬発力を上げるトレーニングを始めました。そこからドリブルのキレも増して、縦に行けるようになりました。ドリブルはU-20ワールドカップでも通用したので、それも自信になりました。

今年からセレッソでプレーすることが決まり、嬉しかったです。(アーサー)パパス監督から直接、声を掛けていただいて、気持ちも高まりました。1月はU-23アジアカップがあったので、宮崎キャンプには終盤での合流になりました。「みんな上手いな」と思うと同時に、ここで活躍したい気持ちが強くなりました。ピッチ外でもみんな優しくて、入りやすかったです。百年構想リーグでは、シーズンの序盤から武器であるドリブルは通用すると感じました。ただし、それだけでは意味がないと思っていた中で、終盤は得点も取れたので自信になりました。今シーズンも自分の特長であるドリブルで観ている人たちをワクワクさせる事と同時に、得点やアシストの数字にもこだわりたい。その両方ができたらセレッソも上位に行けると思うので、内容と結果、両方を目指します。将来の夢はワールドカップで活躍して日本の優勝に貢献することです。そのためにはもっともっとJリーグで活躍して突き抜ける存在になっていかないといけません。今シーズン、目に見える活躍をして、”別格”な選手になっていきたいです。


CAREER
経歴

FCトッカーノU-12→FCトッカーノU-15→帝京高校→FC今治→セレッソ大阪

NATIONAL TEAM HISTORY
代表歴

U-19日本代表、U-20日本代表、U-22日本代表