PROFILE
プロフィール
- 名前小見 洋太(コミ ヨウタ)
- 生年月日2002/08/10(24歳)
- 出身地埼玉県
- 身長/体重169cm / 67kg
- ポジションFW
PLAYER'S HISTORY
インタビュー
<2026年10月23日 更新>
-幼少期-
埼玉県出身です。サッカーは3歳ぐらいで始めました。と言っても、最初は子どもが公園で遊ぶような感じでしたが、ボールを蹴ることに母が才能を感じたようで(笑)、本格的に幼稚園のサッカースクールに入りました。その時間が楽しかったことは覚えています。小学校で最初に入ったクラブがFCリアンです。父が見つけてくれました。体験して楽しいと感じたので入りました。ドリブルにこだわりがあるクラブで、僕の原点です。マーカーを置いてドリブルをやるというよりは、1対1とか対人練習が多かったです。途中でNEOS FCというクラブに入り、小4で大宮アルディージャのU-12に入りました。幼稚園の頃、大宮のサッカースクールにも通っていて。そこで教えてもらっていたコーチの方が大宮のジュニアのコーチになるという縁で、セレクションを受けて入りました。Jクラブの下部組織なので、環境は良かったです。毎日、芝生のグラウンドで練習できました。施設としても、プロの選手も近くで練習していたので、自然とプロサッカー選手を目指す気持ちになりました。ただ、当時の自分はそこまで上手い選手ではなく、評価も低かった。サイドハーフでは2番手だったので、8人制だと試合に出られず、11人制でやっとサイドバックとして出られるレベルでした。県のトレセンに入っている子もいましたが、僕は入れませんでした。ちなみに、シバ(柴山昌也)とは同級生ですが、シバは中学から大宮なので、一緒にはやっていません。高校生になって、練習試合をしたり、トレセンで一緒にプレーもしました。当時から上手かったです。プロで同じチームになることは想像していませんでした。話を戻すと、小学6年生の夏前、FCリアンに戻りました。Jリーグのアカデミーは組織的なサッカーだったので、「中学では大宮のジュニアユースに上がるのではなく、個を伸ばせる街クラブに入った方が良い」という考えを父が持っていて、小6の途中で大宮のU-12を辞めて、FCリアンにまた受け入れてもらいました。小6の県大会でベスト4まで行きました。県内でも強いクラブでした。小学生時代に憧れていた選手は、大宮アルディージャで10番を付けていたラファエル選手です。坊主にしたきっかけも、ラファエル選手に憧れていたことも実は影響しています(笑)。
-中学~高校-
中学からFC LAVIDA(ラヴィーダ)というクラブに入ります。昌平高校の下部組織として2012年に発足したクラブで、練習も昌平高校のグラウンドを借りてやっていました。入ったきっかけとしては、小6の頃、LAVIDAカップという大会があって、そこでFC LAVIDAのスタッフの方に目に付けていただいて、練習参加を経て入れることになりました。このクラブも個人技にフォーカスした練習が多く、小学生時代に取り組んできたことをさらに磨く感じでした。個人技に特化しながらも、よりゴールを目指すサッカーでした。その意味では、進路としては、この上ない選択になりました。ドリブルは当時から楽しかったです。父からは「ただスピードだけで行くな、相手を騙せ」とよく言われていました。父は、サッカー経験はなかったのですが、時間も労力も割いて熱心に向き合ってくれました。母も小さい頃から送り迎えをしてくれて、感謝しています。中学3年間で伸びたと思います。監督の村松(明人)さんの教えを実践すれば伸びていくという感覚でした。サッカー観は一番影響を受けた方で、尊敬しています。中学時代によく見て憧れていた選手は家長(昭博)選手です。
高校は昌平高校に行くのが自然な流れでした。僕がFC LAVIDAに入る前年に初めて全国大会に出場しました。松本泰志くんが高校3年生の代で、インターハイのベスト4まで進みました。1年生の時は、自分はインターハイ、選手権ともサポートメンバーでした。3年生に、のちに川崎フロンターレへ加入した原田虹輝くんがいたのですが、こういう選手がプロに行くんだろうな、というぐらい上手かったです。当時の自分は、高卒でプロになれるとは思っていませんでした。自信が付き始めたのは高2の新人戦です。それまではサイドハーフでプレーしていたのですが、FWをやり始めてワントップで出たらハマって。そこから試合にも絡み始めました。高2で出た選手権もFWで出ました。FWになってからドリブルは減って、起点を作って落として、ゴール前に走って、というスタイルに変わりました。昌平は上手い選手の集まりだったので、その中だと僕は技術的にズバ抜けていたわけではなかった。その分、走力や動き出しの上手さは他の選手にはないモノを持っていたので、そこで違いを作る感じでした。11人の中で、良い意味で1人だけ昌平のスタイルらしくない選手でした。高2の選手権でベスト8まで行って、青森山田に負けたのですが、この大会で優秀選手にも選ばれたことで自信が付きました。このあたりから、もしかしたらプロになれるかも知れない、という気持ちも芽生えてきました。ただ、まだプロで通用する自信はなかったので、大学進学を考えていました。U-18日本代表にもこの時期初めて入りました。のちにアルビレックス新潟に同期入団した三戸舜介選手が印象に残っています。この代表で一緒だった津久井(匠海)選手とは、小学生の頃からずっと対戦してきました。
高校時代、PKの蹴り方が話題になりましたが、練習で色々と蹴り方を試す中で行きついた形です。速く蹴ると成功率が低くなり、遅くやったら成功する。それで段々と遅くなりました(笑)。自分でもあそこまで遅くなるとは思っていなかったです(苦笑)。正直、蹴りやすいか、と言われたらそうでもないのですが、成功するので。決めるために仕方なくあのスタイルになった感じです(笑)。高2の選手権でベスト8に行けたので、高3になるにあたって、「全国を獲るならこの代だ」という意識でスタートしました。自分を含めて高卒でプロになった選手が4人いるぐらい選手も揃っていたので。ただ、山梨学院に負けてベスト8で終わりました。悔しかったです。高3でもワントップでプレーしていました。FWをやっていなければ試合にも出ていないですし、プロにもなれていなかったと思うので、FWという新境地を見出してもらった昌平高校には感謝しています。そのきっかけを作ってくれたのも、先ほど話した村松さんです。昌平高校のヘッドコーチもされていたので、中学時代も含めて僕にとって恩師です。毎年、高校へ挨拶に行きます。昌平高校の練習は、自分たちを尊重してくれました。よく聞く高体連の理不尽さはなく、自由度は高かったです。プロの話は高3の夏にいただいたのですが、プロ入りの内定をもらっても冷静でした。その時もまだ、僕も父も大学に行った方が良いのではないか、という思いがあったので。プロに行くにしても大学を経由した方が良いのではないかと。アルビレックス新潟にプロ入りが決まった時も不安の方が大きかったです。水戸ホーリーホックからも話をもらっていたのですが、アルベル監督のもと、新潟はサッカーのスタイルが明確にあったので、新潟を選びました。
-プロ以降-
プロ1年目は、やっぱり大学に行っておけば良かったと思うぐらいレベルも高く、試合に出られる感じではなかったです。天皇杯2回戦のツエーゲン金沢戦でプロデビューして2アシストできたのですが、その後もリーグ戦では使ってもらえず、リーグ戦に初めて出た試合は36節でした。そこからは使ってもらい、1年目は4試合に出たのですが、その4試合が次のシーズンにつながりました。厳しい1年目でしたが、最後に少し光明も見えた感じでした。高校ではFWをやったのですが、プロになってまたサイドハーフに戻りました。2年目ではリーグ戦で23試合に出ました。横浜FC戦で決めたプロ初ゴールは覚えています。サイドバックからFWに入れて、FWがボランチに落として、三戸が中に入ってきて、ボランチから三戸に当てて、三戸の落としを僕が流し込んだ綺麗な崩しでした。このシーズンから松橋(力蔵)監督になって、スタイルも確立されて楽しかったです。優勝争い、昇格争いのプレッシャーはありましたが、高卒2年目でJ2優勝、J1昇格を経験できたことは大きかったです。この年、(本間)至恩くんが夏に海外移籍して、そこから僕の出場機会も増えたので、至恩くんが海外移籍してくれてラッキーでした(笑)。
3年目はJ1で29試合に出ました。プロ入り直後から思えば、J1で試合に出ることは想像もしていませんでした。開幕戦はセレッソのホームでした。この試合、僕もスタメンで出たので、J1デビューがセレッソ戦でした。振り返ると、そういう縁もありますね(笑)。チームとしては10位で終わって良いシーズンでしたが、個人としては結果が付いて来なかったので、苦しい1年でした。守備で貢献したり、チャンスの起点になっていたり、要所、要所で活躍できたとは思いますが、ゴールやアシスト、目に見える結果を残せなかったので、自分の力の無さを感じた1年でした。翌年もJ1で29試合に出ました。前の年に比べて良かったですが、夏にケガをして、復帰まで2ヶ月掛かりました。一番コンディションが良い時期で連続ゴールも取っていた中でのケガだったので、悔しかったです。このシーズンはルヴァンカップ決勝も強く印象に残っています。後半アディショナルタイムに自分がPKを決めて同点に追い付いたのですが、人生で一番緊張しました(笑)。サポーターも多く国立競技場に駆け付けてくれて、新潟から東京への新幹線が増便したと聞きました。延長戦でも同点ゴールを決めることができたのですが、最後はPK戦で名古屋グランパスに負けました。ここでタイトルを獲っていればアルビレックス新潟の歴史も変わっていたと思うので、本当に悔しかったです。その翌年の夏に柏レイソルに移籍したのですが、新潟は間違いなく特別なクラブで特別な土地です。僕をプロサッカー選手として招き入れてくれたクラブですし、サポーターの皆さんも温かかった。本当に感謝しています。
昨シーズンの途中に柏へ移籍したのですが、オファーをいただいて、魅力的なサッカーをしていたので、新しいチャレンジをすることに決めました。リカルド ロドリゲス監督のサッカーは難しかったですね。かなりシステマティックで、なかなか適応することができませんでした。ただ、ここまで戦術がガッチリした監督とやったことはなかったので、学ぶことも多かったです。今年、セレッソに期限付き移籍して、パブロ マチン監督はリカルド ロドリゲス監督より自由度は与えてくれます。その中でも、やらないといけないことはリカルド監督に教わったことが生きています。思えば、スペイン人監督に縁がありますね(笑)。ただ、3人ともサッカーは違うのが面白いです。セレッソでも、新潟でやってきたこと、柏で学んだことは生かせると感じているので、ゲームの中で披露していきたいです。そのためには練習からアピールしていく必要があります。セレッソはチームもサポーターもノリがいい(笑)。その中でも温かさを感じます。スタジアムの雰囲気も良いので、自分のゴールでサポーターを喜ばせることができたらと思っています。応援よろしくお願いします!
CAREER
経歴
NATIONAL TEAM HISTORY
代表歴
PERSONALITYパーソナリティー
1 ニックネーム
コミ2 利き足
右足3 足のサイズ
25.54 背番号のこだわり
自分の色に染められるように5 スパイクのこだわり
ボールフィーリング、フィット感、軽さ6 試合前に必ずすること
ストレッチ7 自分のプレーの特徴
馬力8 遠征に必ず持っていくもの
髭剃り9 オフの過ごし方
買い物10 ストレス解消法
食べる11 サッカーを始めたきっかけ
母の薦め12 仲の良い選手/理由
三戸舜介/同期13 チームメートの意外な一面/内容
これから見つけます14 憧れの選手
家長選手15 サッカーで一番大切にしていること
勝つ16 今までで一番嬉しかった試合
プロデビュー戦天皇杯vs金沢17 もしサッカー選手じゃなかったら
学校の先生18 あなたにとってサッカーとは
夢、希望、人生19 今季の目標(サッカー目標)
8ゴール20 セレッソ大阪の好きなところ
ユニホーム、エンブレムがカッコいい21 セレッソ大阪のイメージ
さくら22 YANMAR HANASAKA STADIUMの好きなところ
距離感が近い23 おすすめの地元飯
大村庵のカレー南蛮24 趣味・マイブーム
コーヒー25 自分の性格を一言で
こだわりが強め26 自分を動物に例えると
犬27 生きていて1番ワクワクする瞬間
美味しいものを食べたとき28 座右の銘、好きな言葉
質実剛健29 初めての給料の使い道
両親へのプレゼント30 好きな芸能人/アーティスト/芸人(男性)
オードリー若林31 好きな芸能人/アーティスト/芸人(女性)
あいみょん32 好きな女性のタイプ
自立した人33 好きな季節/理由
夏/夏生まれだから34 好きな音楽のジャンル
J-POP35 好きな食べ物
そば36 苦手な食べ物
数の子37 この世で一番好きなもの
家族38 この世で一番怖いもの
ジェットコースター39 今一番会ってみたい人
家長昭博さん40 今一番欲しいもの
時計41 最近の悩み
引っ越しが大変だった42 今季の目標(プライベート)
整理整頓43 子どもの頃にやっていてよかったなと思うこと
電車を使った通学44 学生時代に得意だった科目
体育45 ほっとする瞬間
飛行機着陸の瞬間46 日常生活でサッカー選手だと感じる瞬間
長い間サッカーをしないとイライラしやすくなる47 旅行に行くならどこへ行きたい
スイス48 住んでみたいところ
ドイツ49 戸建派かマンション派か
戸建て50 ファン・サポーターへひと言
自分が何者かを証明する一年にします
