田中 駿汰
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MF

TANAKA Shunta

田中 駿汰
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  • 年齢29
  • リーグ戦
    総出場試合数
    -

PROFILE
プロフィール

  • 名前田中 駿汰(タナカ シュンタ)
  • 生年月日1997/05/25(29歳)
  • 出身地大阪府
  • 身長/体重183cm / 73kg
  • ポジションMF

PLAYER'S HISTORY
インタビュー

<2026年2月6日 更新>

-幼少期-

サッカーを始めたのは幼稚園の年中で、きっかけは、幼稚園にサッカーのチームがあって、園長先生に「サッカーやるか?」と声を掛けられたことです。後々聞くと、当時の自分は引っ込み思案で性格を表に出せないタイプで、サッカーをやらせようと父が園長先生に頼んだみたいです(笑)。小1からは地元のNSC北斗SCに入りました。ポジションは主に真ん中、ボランチの位置で、アシストするのが好きでした。最終学年ではキャプテンもやらせてもらいました。段々、強くなって、全国大会にも出ました。遠征に行く機会もあり、サッカーを通して逞しくなったと思います。この時期は、ひたすらリフティングを練習しました。あと、縄跳びもやるチームだったので、二重跳びの練習もしました(笑)。昔から好きな選手はロナウジーニョでした。今でも「好きな選手は?」と聞かれたら「ロナウジーニョ」と答えることもあります。自分とスタイルが似ているわけではないですが、そういう選手を好きになります(笑)。


-中学~大学-

中学からは、ガンバ大阪のジュニアユースでプレーします。きっかけは、北斗のチームメートが受けるということで、ついていった感じです。セレッソも受けたのですが、1次で落ちました(苦笑)。ガンバは1次、2次、3次と進んで受かりました。練習場が遠かったので、通うのが大変でした。親が大変だったと思います(苦笑)。学校が終わって迎えに来てもらい、車の中で着替えて、電車で向かいました。初瀬亮と最寄り駅が一緒だったので、練習場に行くまでの電車の時間は2人でずっとゲームをしながら過ごしていました(笑)。同学年には、亮の他にも市丸瑞希、髙木彰人、林大地らがいました。上手い選手が多かったです。スカウト組とセレクション組がいたのですが、僕はセレクション組。スカウトで入ってきた子たちはみんな上手かった。ナショナルトレセンにも選ばれるような選手ばかりでした。僕はそういう選手ではなかったので。一学年下には(堂安)律もいて、律は自分たちの代の試合にずっと出ていました。チームのスタイルはポゼッション。自分も足元の技術をひたすら磨きました。トラップや相手の逆を突いたりするプレーは、中学3年間で学びました。今のスタイルの基礎を作ってくれたと思います。ポジションは、中1は右サイドハーフ。中2からボランチになって、市丸とダブルボランチを組みました。僕らが最終学年のシーズンは負ける気がしなくて、三冠(JFAプレミアカップ、高円宮杯全日本ユースサッカー選手権大会、日本クラブユースサッカー選手権大会)を達成しました。僕自身もずっと試合に出ていたので、ユースに上がれると思っていたのですが、面談で上がれないことを伝えられた時は、「えっ?」ってビックリしました(苦笑)。


高校は履正社高校に進みます。ガンバジュニアユースの鴨川(幸司)監督に、「府外へ出るより、大阪で探した方がいいんじゃない?」と言ってもらい、何校か練習参加に行きました。履正社は当時、プリンスリーグの下のカテゴリー、大阪1部リーグだったのですが、「俺らが行ったら強くなるんちゃう?」と、ガンバユースに上がれなかった子たちで入りました。つなぐスタイルだったので、中学で学んだことも生かせるし、「俺らの力で強くしていこう」と。高校では一気に身長が伸び、守備力を上げるとともに、攻撃的なボランチとして点が取れるボランチになりました。当時はそこまでキラーパスを通すタイプではなかったです。1年でプリンスリーグに昇格して、高校選手権にも出場しました。履正社にとっては初出場だったので、めっちゃ嬉しかったです(笑)。僕自身はレギュラーではなかったのですが、青森山田にも勝って、ベスト8まで進みました。2年では試合に出てプレミアリーグに昇格して、選手権にも出ました。高3ではインターハイは出たのですが、選手権予選は府のベスト8で負けました。初挑戦のプレミアリーグでは、最初は苦労したのですが、シーズンを追うごとにやれる手応えは掴みました。ただ、結果的に降格してしまい、悔しかったです。3年間を通して、高体連に行ったからこそ学べたこともたくさんありました。普段の挨拶など生活面も学びました。「そういう部分が試合にも出るぞ」と監督からも言われていました。高校時代は朝5時半に起きて6時半の電車に乗って学校に行き、夜は10時過ぎに家に帰って、ご飯を食べて寝る。その繰り返しでしたが、しんどいと思うことはなく、それが当たり前という感じでした。ただ、中学時代と同様、親が大変だったと思います。今、思えば本当に感謝しないといけないなと。ガンバのジュニアユースに入った中学時代からプロサッカー選手になりたい思いはありました。高卒でプロになりたかったのですが、冷静に見れば、プロの目に留まる活躍ができていたわけでもなかったので、無理だろうなという思いはありました。


大学は大阪体育大学へ進学します。履正社のコーチが体大出身という縁もあり、体大の監督からも声を掛けていただいたので、決めました。スタイルは中高とは全然違いましたが、だからこそ良かった。「こういう部分が足りないからプロに行けなかった」と自分なりに分析したことを伸ばすことができました。「足りない」と思っていたのは、フィジカルやタフに戦う心身ですね。大学4年間でそれを身に付けることができました。1年の後期リーグから試合に出ました。最初はボランチだったのですが、シーズン中にCBにケガ人が出て、練習でもほとんどやっていなかったCBをやることになりました。最初にCBで先発した試合では、自分たちの選手が開始5分で退場してしまい、0-3で負けました。しんどいCBデビューでした(苦笑)。大学時代に一気に身長が伸びて、2回生、3回生でもCBでした。4回生になってボランチに戻りました。大学時代は1本のパスで攻撃のスイッチを入れることも意識しつつ、守備や対人を高めることを学んでいたので、CBの楽しさも感じていました。3回生、4回生と関西学生リーグ1部で優勝しました。特に4年次はぶっちぎりでした。総理大臣杯やインカレでも全国大会に出ました。個人としては、1回生と2回生でデンソーカップの関西学生選抜に選ばれて、3回生になって全日本大学選抜に選んでもらいました。4回生の5月にトゥーロン国際大会(フランス)を戦うU-22日本代表にも選ばれました。アンダー世代の代表はこの時が初めてです。ビックリしました。「ホンマに?」って(笑)。この大会のメンバーには、(三笘)薫、旗手怜央、相馬(勇紀)、小川航基らがいて、(舩木)翔もいました。決勝でブラジルに負けたのですが、ここから日本代表への思いも強くなりました。6月にはユニバーシアード日本代表に選出され、金メダルを獲得しました。12月にはE-1選手権で日本代表デビューもできました。(東京)五輪メンバーと国内組のJリーガーが半々で、正式なフル代表ではなかったのですが、大事な大会に選ばれて嬉しかったです。大学4年は目まぐるしく環境が変わり、かなり濃かったです。常に遠征に行っていた記憶があります。セレッソつながりで言えば、同級生の(毎熊)晟矢とは大学時代に対戦して、大学3回生の夏、イタリア遠征に行った全日本大学選抜でも一緒でした。高校時代も対戦したことがあります。FWでしたが、器用な選手だったので、プロになって右サイドバックになったと聞いても違和感はなかったです。晟矢ならやれるだろうなと(笑)。今年から同じチームになったので、一緒にプレーするのが楽しみです。やりたいことも分かりますし、技術もあって運動量もあるので、コミュニケーションを取りながら、いい連係を築けたらと思います。


-プロ以降-

プロ入りにあたり、いくつかのクラブからオファーをいただきました。練習参加したのは、北海道コンサドーレ札幌、セレッソ大阪、ガンバ大阪の3チームです。札幌を選んだ理由は、見ていて面白いサッカーをしていたからです。ミシャさん(ミハイロ・ペトロヴィッチ監督)のビルドアップ、後ろからつなぐサッカーに魅力を感じ、自分の特長を生かせるという思いもあって、決めました。セレッソに練習参加した時も、練習後すぐロティーナ監督から呼ばれて、「欲しい」と評価していただきました。「ありがとうございます」と返事はしたのですが、即決はできず、最終的に札幌を選びました(苦笑)。内心、「そろそろ大阪を出るのもいいかな」という思いもあり(笑)。ミシャ監督のサッカーは想像以上に難しかったです。決まった形があるので、まずそれを覚えてから、自分の特長も出さないといけない。「こんなに考えてサッカーをしたことがない」というぐらい、最初は大変でした。プロ1年目は、開幕戦の後にコロナで中断し、デビュー戦は無観客試合でした。「一生に一度なのに」と思いながらプレーしていました(苦笑)。最初はボランチでしたが、すぐに後ろ(CB)になりました。初スタメンの試合は3CBの真ん中でした。その後、進藤(亮佑)くんがケガをして、3CBの右に移りました。思いのほかやれて、そこからは右で固定されました。ただ、進藤くんが戻ってきてからはボランチでも出た記憶があります。ミシャさんのサッカーはやりがいがありました。ブレない哲学があり、求められることもハッキリしていました。守備はマンツーマンで、対人能力も求められるので大変でしたけど、必死にやっていました。攻撃では常に前を狙い、1本で背後を取るパス、シュートに直結するパスを求められていました。ミシャさんは、後ろの選手にもそういうパスを求めていました。相手にとって嫌な場所を常に狙う意識は、札幌での4年間でかなり身に付きました。怖さを与えるためには、どこかで大胆に縦を狙わないと、相手に余裕を持って守られてしまう。「1本のパスで簡単に背後を取れるなら、それが一番いい」という話をミシャさんはしていました。そうしたプレーはセレッソでもどんどん出していこうと思っています。

昨シーズンはパパス監督のもと、人もボールも動くアグレッシブな攻撃サッカーにトライしました。守備でも自分たちから仕掛けてボールを奪い、攻撃でも前へ向かう姿勢を強く出して、どのポジションからでもゴールに向かう意識を持ってプレーしました。「どんな状況でもボールに関われ」ということも監督から常に言われていたので、しっかり走ってボールを受けることも意識しました。1シーズン戦って、着実に自分たちのサッカーを積み上げることができた手応えはあります。ただ、上位チームと比べて細かな部分で差はありました。昨シーズン積み上げたサッカーを信じてやり続ける事に加えて、足りなかったところをしっかり反省して生かして、今シーズンは百年構想リーグから優勝を目標に戦っていきます。

個人としては、昨シーズンは主将も経験させてもらいました。この立場になってみないと分からないことはたくさんありましたし、チームの先頭に立ってまとめていくことは簡単なことではないと感じました。初めての経験で慣れない中、(香川)真司さん、ジンさん(キム・ジンヒョン)、ノボリくん(登里享平)、(畠中)槙之輔くん、(福井)光輝くん、経験ある先輩方に支えてもらいました。チームが良くない時にどうすればいいか、キャプテンという立場になったことで見えたこともありました。プロ生活で一番成長した1年になったと思いますし、これからのサッカー人生にプラスになりました。昨年はJ1通算200試合出場も達成できました。嬉しい気持ちもありますし、セレッソと札幌で関わって下さった皆さまに感謝しながら、もっともっと積み重ねていきたいです。セレッソでタイトルを獲ることが自分の成長にもつながると思うので、地に足を付けながら、タイトルを目指して戦います。


CAREER
経歴

NSC北斗SC→ガンバ大阪ジュニアユース→履正社高等学校 →大阪体育大学→北海道コンサドーレ札幌 ※特別指定選手→北海道コンサドーレ札幌→セレッソ大阪

NATIONAL TEAM HISTORY
代表歴

U-22日本代表、U-23日本代表、U-24日本代表、日本代表