PROFILE
プロフィール
- 名前香川 真司(カガワ シンジ)
- 生年月日1989/03/17(34歳)
- 出身地兵庫県
- 身長/体重175cm / 68kg
- ポジションMF
PLAYER'S HISTORY
インタビュー
-幼少期-
Jリーグが開幕したのが4歳で、サッカーを始めたのはその影響が大きかったですね。ただ、その前から公園でボールは蹴っていました。父も母もバスケをやっていたので、僕もバスケや野球も含め、球技は全般的に好きでした。当時は鹿島のファンでした。ジーコ選手が好きで、鹿島の試合をよく見ていましたね。小学生になり、最初に入ったクラブは、近所にあったマリノFCです。サッカーは毎日楽しかったですね。そこから東舞子SC、センアーノ神戸(当時は神戸NKサッカークラブ)と移るのですが、マリノFCと同時期に違うスクールにも通っていて、そこでお世話になっていたコーチが東舞子SCのコーチでした。そのコーチが好きで、その方がセンアーノに行ったので、僕も付いていった感じです。センアーノに入ったのは小5の冬です。県トレで顔見知りの選手も多かったですし、レベルも高く、神戸では強いクラブでした。高学年になって全国大会も始まり、より勝ち負けに対するこだわりも出てきました。小5、小6は強く印象に残っています。中学からは仙台に行くのですが、先ほど話した、慕っていたコーチがFCみやぎとつながりがあり、小5の冬休みに2週間ほどホームステイでFCみやぎの練習へ行ったんです。そこでの練習や環境が楽しくて、戻るのが嫌になるほど魅了されました。それが強烈な印象として残り、「中学はこのクラブに行きたい」という思いになりました。ただ、仙台は遠いですし、両親の理解なしでは行くことはできなかった。昔から両親は自分の意思を尊重してくれました。そうした両親のサポートや理解がなければプロサッカー選手にはなれていないので、本当に感謝しています。
-中学~高校-
仙台での最初の半年はホームステイをしていたのですが、そこから祖母が仙台に来てくれて、2人暮らしが始まりました。実際にFCみやぎに入ると、小5で練習参加した時のように、ただただ楽しいだけではありませんでした。中学生なので、トレーニングの質もガラッと変わった。もっと楽しくサッカーできると思っていたのですが、楽しいという感情より、毎日が必死でした。同学年にライバルがいて、競争心も植え付けられ、戦いの日々でした。トレーニングもハードで、怒られることも多かったので、メンタルが鍛えられました。僕はプロを目指して神戸から仙台に行ったので、より厳しく要求されたところもあったと思います。でもそれが今となっては生きています。上の学年にも混ざってプレーしていたので、体格で劣る中でどう戦うかも考えていましたが、常に負けていたイメージです。悔しい経験ばかりでした。特に最初の方は大変でした。練習は、1対1やゲーム、技術の練習がほぼ占めていました。ポジションはFWやトップ下など、前めのオフェンシブな位置でした。高校生に混ざってプレーしていた中3の時、2学年上の丹野(研太)選手を視察に来た小菊さん(当時スカウト)に注目してもらいました。実際に小菊さんと会ったのは高校生になってからですが、中3が始まりだと思います。高校進学にあたっては、地元の滝二(滝川第二高等学校)が兵庫県では強かったので、滝二に行く考えもあったのですが、割とスムーズにFCみやぎのユースに進むことに決めました。高校は寮に入ったので、祖母との2人暮らしは中学までです。僕が言うことを聞かないので、大変だったと思います。しょっちゅうケンカもしました(笑)。神戸から仙台に来てくれたことは本当に感謝しないといけません。こうしてまたセレッソに戻ってきたので、間近で試合を見せてあげたいですね。
サッカー選手としては、高校生になって、一気にグッと伸びました。まずポジションがボランチになり、そこから東北選抜や年代別の日本代表にも入り、プリンスリーグでも活躍できました。ボランチに移った経緯はハッキリとは覚えていないですが、何かのタイミングでプレーしたらうまくハマったんでしょうね。後ろからどんどんドリブルで駆け上がって点を取れるボランチは、当時の日本にはあまり存在していなかった。監督やコーチとも、「ただ捌くだけではなく、前に上がれる、点が取れるボランチになれ。そうすれば、誰にもない良さが出せる」という話をしていました。転機は、U-18東北代表として出場した、高2の9月に行われた仙台カップ国際ユース大会です。U-18日本代表とも対戦したのですが、同世代のトップとどこまで差があるのか、モチベーション高く燃えた試合でした。結果、5-2で勝利し、自分もいいアピールができて、ここから継続的に年代別の代表にも呼ばれるようになりました。高2の12月にセレッソと仮契約をしました。小菊さんには、高校に入ってもずっと見てもらっていました。運動量豊富に攻守に関わるプレーを評価してもらったのだと思います。当時、セレッソだけではなく、FC東京と新潟の練習にも参加しました。FC東京もセレッソと同じような時期にオファーをくれました。強化部長が大熊清さんで、監督が原博実さんでした。FC東京も魅力的で、一瞬、セレッソと悩んだところもあったのですが、やっぱりセレッソだと、最終的に決断しました。一番最初に小菊さんが気にかけてくれて、そこからずっと追ってくれて、オファーをくれた。最初に声をかけてくれたことは、やっぱり大きかったですね。大阪は地元にも近いですし、先輩の丹野選手もいました。熱心にアプローチしてくれたという気持ちの部分と環境で、セレッソに決めました。ちなみに、「プロになりたい」と漠然と思ったのは、サッカーを始めた時からです。ただ、具体的には、中学生まではプロになれるとは思っていませんでした。もちろん、夢としてはありましたが、具体的なイメージは想像がつかなかった。その中で、高1になってボランチになり、全国大会に出たり、年代別代表に選ばれたり、色んな出来事が立て続けに起こって、一気に成長して、プロが視界に入ってきました。プロサッカー選手が夢から目標に変わったのは、高1です。
-プロ以降-
高3に上がるタイミングで、プロサッカー選手としての歩みが始まりました。1年目はトップチームとはほぼ別でトレーニングしていました。自分自身、その時はトップに絡みたいという考えはなかったです。メンバーも凄かったし当時はベンチ入りも16人だったので、試合に出られないことは想定内でした。試合に出ることよりも、練習をバンバンやって、2、3年後に花が咲けばいいや、いずれ差を付けるぞと思っていました。まずは体を作ることを意識していました。プロは高校に比べたら練習時間も長くはなく、練習着も洗濯してもらえて、食事も出る。その環境に甘えず、誰よりも練習をやる、サッカーに集中する。それは徹底していました。サテライトリーグですが試合の環境もいっぱいあったので、鍛えられました。同期も多かったので、彼らの存在も大きかった。比べられるし、負けたくない一心で強烈に意識していました。当時、僕の1年目にちょうど小菊さんもコーチになられました。心細い時期に、信頼している方がコーチにいてくれたこと、その中で一緒に練習できたことは大きかったです。勝矢(寿延)さんもコーチとして、見てもらっていました。当時のトップチームの選手たちは、雲の上の存在でした。森島(寛晃)さん、アキさん(西澤明訓)、ヤマタクさん(山田卓也)ら経験豊富な選手がいて、フルさん(古橋達弥)も若手として出始めの頃で、途中からは名波(浩)さんや(大久保)嘉人さんも入ってきました。1年目の僕がその先輩たちと話すことなんて、ほぼありませんでした。今の若手は僕らとも会話をしますが、当時は考えられなかった。時代は変わったなと思います(笑)。プロ2年目が、セレッソでの転機でした。クラブは前年にJ2に降格してしまったのですが、個人としては、2007年の途中で就任した(レヴィー)クルピ監督に起用してもらい、飛躍のきっかけを掴めました。レヴィーから言われたポジションは2列目でした。自分としては、これまでにない新たなボランチ像を作りたい一心で、プロでもボランチでプレーして日本代表にも入りたかったので、最初は嫌でした。ただ、レヴィーからは、「ボランチはいつでもできる。前で勝負できるポテンシャルをもっているのだから、ドリブルで仕掛けて、点を取って、前で勝負しろ」と言われ、数字を徹底的に意識させられました。今から振り返ると、技術や運動量を、より攻撃的なポジションで生かせるとコンバートしてくれたレヴィーには感謝しています。3年目の2008年に16ゴールを取れました。この時期はずっと、「数字を残さない限り攻撃の選手は評価されない」とレヴィーには言われていましたし、自分も意識していました。ただ、J2という環境だったので、何点取っても全く満足はしていなかったです。むしろ毎試合、反省の繰り返しでした。この年は、U-19、U-23、日本代表と3世代に渡って代表にも選んでもらい、様々な経験をする中で、より高みを目指す意識に変わっていきました。08年の最後には、この年で引退する森島さんから8番を譲り受けました。森島さんからレストランでその話をしてもらった記憶があります。最初は恐れ多い気持ちしかなかったのですが、クラブからではなく、直接、本人から言われる意味合いは大きかったので、有難い思いもありました。チームとしても、翌2009年は絶対にJ1昇格という強い覚悟で挑み、J2得点王にもなれて、J1昇格できました。翌年の夏にドルトムントへ移籍したのですが、セレッソで過ごした最初の4年半は本当に濃い時間でした。周りの人にも恵まれ、サッカー選手として大きく成長できたと思います。
ドルトムントに入り、最初にジグナル・イドゥナ・パルクに立った思いはもちろん覚えています。スタジアムが揺れるような応援、サポーターの雰囲気、クラブの歴史の重み。鳥肌が立つというか、毎回しびれるような環境でプレーできました。クロップ監督との出会いも大きかったです。今では世界中に知れ渡っている監督ですが、当時はまだ気鋭の監督でした。選手たちも、レヴァンドフスキ、さらにはフンメルスやシャヒン、マリオ ゲッツェらこれからのドイツを背負って立つ勢いのある選手ばかりでした。そういう環境のドルトムントにあのタイミングで加入できたことは、本当に絶妙でラッキーでした。素晴らしい監督や仲間と出会えて、全てがバッチリ噛み合った感覚があり、うまく適応できました。マンチェスター ユナイテッドでも、初めてファーガソン監督と会った時のオーラには圧倒されました。直接オファーを頂いた価値は、紙切れ1枚のオファーとは全く違い、計り知れない重みがありました。そこからも様々なクラブでプレーを重ねた中で、今年、セレッソ大阪に復帰しました。経緯や自分の思いは会見で話をさせてもらった通りですが、何よりやはり、グラウンドの上で証明したい、サッカー選手としてまだまだ成長したい、もっともっといい選手になりたい思いがあります。その気持ちがあるからこそ、セレッソでまたプレーするという決断に至りました。Jリーグは、より競争力の高い激しいリーグになっているし、上位と下位で、そこまで大きなレベルの差はないと思っています。セレッソも、やり方と積み上げ方次第では、凄く大きなモノを生み出せるポテンシャルを持っているクラブです。昨年はベースを作り、5位という結果も残しています。ここから先もしっかりとしたプロセスを築いていけば、タイトルを獲れる可能性は十分あると思います。ただ、昨年タイトルを獲れなかった理由もあるはずです。そこにしっかり目を向けて、僕たちがどれだけ本質を突いて積み重ねていけるか。セレッソがもう一つ、二つ上に行くためには、選手だけではなく、クラブ、ファン・サポーター全員で細部にこだわって、しっかりとしたプロセスを築いていくことが大事。そのプロセスに関わることに自分自身もやりがいを感じていますし、クラブの明るい未来、歴史を刻んでいきたいと思います。
CAREER
経歴
NATIONAL TEAM HISTORY
代表歴
PERSONALITYパーソナリティー
1 ニックネーム
シンジ2 利き足
右足3 スパイクのサイズ(cm)
26.54 自分のプレーの特徴
縦横無尽5 遠征に必ず持っていくもの
iPhone6 オフの過ごし方
サウナ7 ストレス解消法
サウナ8 サッカーを始めた年齢(例:10歳)
4歳9 サッカーを始めたきっかけ
Jリーグ開幕10 影響を受けた指導者
お世話になった全ての指導者11 仲の良い選手/理由
岡崎慎司/リスペクトしているから12 今季対戦が楽しみなチーム
全てのチーム13 この人にだけは負けられない/理由
岡崎慎司/苦楽を共にした14 今季の目標(サッカー目標)
ハードワーク15 セレッソ大阪の好きなところ
発展途上16 セレッソ大阪のイメージ
ピンク17 大阪の好きなところ
ご飯が美味しい18 地元(故郷)のおすすめ料理、場所
神戸牛19 趣味・マイブーム
サウナ20 自分の性格
マイペース21 生きていて1番ワクワクする瞬間
サッカーで良いパフォーマンスを出せた時22 人生で1番悔しかったこと
試合に負けた時23 座右の銘、好きな言葉
真玉泥中異24 好きな女性のタイプ
明るい人25 好きな映画のジャンル
ドキュメンタリー26 好きな音楽のジャンル
全般27 得意料理
うどん28 好きな食べ物
うどん・干し芋29 苦手な食べ物
トマト30 この世で一番怖いもの
オバケ31 今一番欲しいもの
住居32 これから取り組みたいこと、やってみたいこと(サッカー以外)
日本の生活に慣れる33 子どもの頃の夢
サッカー選手34 子どもの頃にやっていてよかったなと思うこと
公園でたくさん遊ぶ事35 ほっとする瞬間
家にいる時