PROFILE
プロフィール
- 名前奥埜 博亮(オクノ ヒロアキ)
- 生年月日1989/08/14(34歳)
- 出身地大阪府
- 身長/体重171cm / 68kg
- ポジションMF
PLAYER'S HISTORY
インタビュー
-幼少期-
大阪府南河内郡太子町出身ですが、生まれてすぐ東京に引っ越しました。サッカーを始めたきっかけは、Jリーグをテレビで見て、カズさん(三浦知良)がカッコ良かったからです。最初は遊びでボールを蹴っていて、実際に始めたのは小1からです。最初はクーバー・コーチングのスクールに通って技術を学びました。2年から、家から近かったバディSCに入りました。東京都でも上位のチームでした。小学生の頃は何でもできましたね(笑)。足も速い方で、持久力もありました。ポジションはFWでした。東京都のトレセンにも入っていました。小5で仙台に引っ越すことになったのですが、小6の夏まで、土日は新幹線でバディSCに通っていました。バッグにスパイクやユニフォームを入れて、一人で自由席に乗って東京まで行っていました(笑)。今考えると、凄いですね(笑)。仙台に引っ越した後は、週末はバディSC、平日はジェフの仙台スクールに通っていました。小6では、ダノンネーションズカップにも出ました。清武(弘嗣)選手や柿谷(曜一朗)選手と一緒にプレーしたのですが、試合はあまり覚えていません(苦笑)。
-中学~大学-
中学ではベガルタ仙台のジュニアユースに入りました。小6でセレクションに行って、合格しました。当時、(香川)真司くんのいたFCみやぎバルセロナとも対戦したと思います。真司くんのことはもちろん知っていました。中学か高校のナショナルトレセンかな?Jビレッジに向かう電車の中で話した記憶もあります。ジュニアユースでの思い出は、プレーより、トップチームの試合でボールボーイをやったことです。サポーターの応援や野次が凄かったことを覚えています(笑)。パスやトラップなど、基礎的な部分は中学時代にしっかり練習しました。中3でユースの大会にも出させてもらっていました。当時のユースの監督がイタリアの方で、たまたま気に入ってもらって、使ってもらいました。中学時代もポジションはずっとFWです。高校はそのまま仙台のユースに上がります。1年から、人数が足りない時はトップチームの練習にも参加していました。ただ、プロの選手は怖くて、あまりトップの練習には行きたくなかったです(苦笑)。高校では、FWとサイドハーフをしていました。基本、攻めるのが好きで、アカデミー時代は攻撃のポジションしかやっていません。ボランチはプロになってからです。高3になる前、トップチームのキャンプ参加が決まっていたのですが、直前にケガをして行けなくなりました。その後も夏に膝を手術した影響もあり、10月ごろにトップチームに上がれないことが決まりました。最初は上がれるんじゃないか、という気持ちもあったのですが、3年ではケガで思うようにプレーできなかったので、仕方ないなと。大学は仙台大学に進学しました。僕が通っていた高校ともつながっていて、ベガルタ仙台とも提携していたので、決めました。流経(流通経済大学)に行く選択肢もあったのですが、走りの練習がきついと聞いて、やめました(笑)。大学時代もFWで、1年から試合に出させてもらって、東北の大学リーグで得点王にもなりました。下の相手に固め取りをしたからですが…(苦笑)。1年の最後のデンソーカップが終わって、仙台から話が来て、2年生から特別指定選手になりました。3年では総理大臣杯でベスト4になり、全日本大学選抜にも入りました。チームメイトには、山村(和也)選手らがいました。卒業後、仙台でプロになりました。カズさんを見ていた小さい頃からプロサッカー選手になりたかったので、素直に嬉しかったです。ユース出身で大学を経由してのトップチーム加入はクラブ史上初だったようです。余談ですが、大学4年の時に東日本大震災がありました。僕は部活帰りだったと思います。電気やガスが止まり、グラウンドの横にあるクラブハウスで何日か暮らしていました。1週間くらい経って、関東に住んでいる選手の親がガソリンを持ってきてくれました。それをもらって、僕も東京の実家に車で帰れました。そんな震災の翌年がプロキャリアのスタートでした。
-プロ以降-
1年目から7番を付けさせてもらいました。この番号は、「Mr.ベガルタ」と呼ばれていた千葉直樹さんが付けていた番号。重みがありましたね。紅白戦ではやれている感触はありましたが、ほとんど試合には出られませんでした。チームは2位で、全てがうまくいっていました。手倉森誠監督も「復興のシンボルになる」と話していて、チームも一致団結していました。最後の最後まで優勝を争って、最終的には2位で終わりました。2年目の夏に長崎へ期限付き移籍します。やっぱり1番成長できるのは試合に出ることなので、シーズン前から「チャンスがあるなら移籍させて欲しい」と強化部の方にも話していました。長崎での1年半は、キャリアの転機でした。プロになって初めて年間を通して試合に出ました。仙台とはサッカーのやり方も違って、幅も広がりました。シャドーを初めてやったのも長崎です。移籍1年目から高木さん(高木琢也監督)に我慢強く使ってもらい、翌年はほぼフルでシーズンを戦って、選手としてもかなり成長できました。その翌年、15年に仙台へ復帰します。長崎での経験もあって、メンタル的にも自信を付けて戻ることができたので、32試合で7得点と結果を残すことができました。ここからはずっと出続けた中で、監督やサッカーが変わることもあったのですが、選手としての幅は広がりました。ポジションも、攻撃的な位置からボランチまで、幅広くプレーしていました。ただ、いいチームになっても、毎年、選手が入れ替わり、成績としては中位か残留争いでした。試合に出ている充実感はあったのですが、優勝争いできるチームに移籍したい思いも出てきました。そのタイミングで、セレッソからオファーをもらいました。ただ、仙台にも愛着があったので、かなり迷いました。仙台の強化部長にもかなり引き止められました。性格的にも、新たな環境ですぐ打ち解けられるタイプではないので迷ったのですが、長崎に行った時も環境を変えて成長できたので、最終的に移籍を決めました。この年からセレッソも監督がロティーナ監督になり、また新たなサッカーに触れて成長できました。最初のタイキャンプでは序列が低かったのですが、最初の実戦で気に入ってもらえたのか、リーグ戦でも使ってもらえました。セレッソにはボランチとして獲ってもらったのですが、途中からFWというか、トップ下のような位置になりました。監督が求めていたことを表現できていた実感はあります。気付けばセレッソでも5年目になりました。こんなに長くいるとは思っていなかったですね(笑)。今年の目標はタイトルしかありません。僕は一度も取れていないので取りたいです。セレッソとしてもリーグ優勝はまだないので、そこが一番の目標です。その中で自分も試合に出て貢献できればと思っています。
CAREER
経歴
PERSONALITYパーソナリティー
1 ニックネーム
オク2 利き足
右足3 足のサイズ(cm)
26.54 スパイクのこだわり
履いた感触5 自分のプレーの特徴
周りの選手と関わるプレー6 遠征に必ず持っていくもの
iPad7 オフの過ごし方
のんびり過ごす8 ストレス解消法
あんまり考えすぎない9 サッカーを始めた年齢
6歳10 サッカーを始めたきっかけ
Jリーグを観て11 影響を受けた指導者
全員12 憧れの選手
三浦知良選手13 今季対戦が楽しみなチーム/理由
横浜F・マリノス/去年の優勝チームだから14 将来の夢(サッカー面)
タイトル15 もしサッカー選手じゃなかったら
会社員16 あなたにとってサッカーとは
好きなこと17 今季の目標(サッカー目標)
タイトル18 セレッソ大阪の好きなところ
人がいいところ19 セレッソ大阪のイメージ
やんちゃ20 大阪の好きなところ
想像してたより人が優しい21 地元(故郷)のおすすめ料理、場所
厚切り牛タン22 趣味・マイブーム
ドラマを見る23 自分の性格
マイペース24 生きていて1番ワクワクする瞬間
試合の時25 人生で1番悔しかったこと
決勝で負けたこと26 座右の銘、好きな言葉
なるようになる27 初めての給料の使い道
特に考えて使わなかった28 好きな芸能人/アーティスト/芸人
平井大29 好きな女性のタイプ
気が使える人30 好きなアニメ/マンガ/ゲーム
モンスターハンター31 好きなキャラクター
マルコクオーレ32 好きな映画のジャンル
面白ければ何でも33 好きな音楽のジャンル
J-POP34 得意料理
肉と野菜を炒める35 好きな食べ物
鳥刺し36 苦手な食べ物
納豆37 この世で一番好きなもの
決められない38 この世で一番怖いもの
思いつかない39 今一番欲しいもの
タイトル40 最近嬉しかったこと
家族で旅行できたこと41 これから取り組みたいこと、やってみたいこと(サッカー以外)
勉強42 子どもの頃の夢
サッカー選手43 子どもの頃にやっていてよかったなと思うこと
水泳44 思い出の一品(食べ物でも、身につけるものでも可)
いろいろ45 誕生日にもらって嬉しかったもの
手紙46 ほっとする瞬間
家でゆっくりしてる時47 いつもつけている香水(銘柄等)
決まったやつはない48 将来の夢(プライベート)
自分の好きなことをして暮らしたい