PROFILE
プロフィール
- 名前丸橋 祐介(マルハシ ユウスケ)
- 生年月日1990/09/02(33歳)
- 出身地大阪府
- 身長/体重178cm / 73kg
- ポジションDF
PLAYER'S HISTORY
インタビュー
-幼少期-
ボールを蹴り始めたのは幼稚園です。3つ上の兄の影響が大きかったです。最初から楽しかったですね。小3から地元の南港サクラFCに入りました。これも兄の影響です。もう一つ、市内のうまい選手たちで選抜されていた大阪市ジュネッスFCでもプレーしていました。このチームにも、兄が入っていました。掛け持ちする形だったのですが、土日で試合が重なったときはジュネッスFCの方に行っていました。当時のプレーとしては、ほぼ攻めていました(笑)。点もよく取っていましたよ。ジュネッスFCでは、6年でキャプテンもやりました。伸び伸びやっていましたが、父は厳しかったですね。練習や試合の送り迎えもしてもらっていたのですが、プレーについて、帰りの車の中で説教されることもありました。言っていることは正しかったので、特に反発することはなかったですが(笑)。小学校を卒業して、セレッソ大阪U-15のセレクションを受けました。ジュネッスFCの指導者に勧められたのがきっかけです。セレッソは地元のクラブなので、試合もよく見に行っていました。大久保嘉人選手がセレッソに入ったばかりの頃です。応援に行くうちに好きになりました。セレクションを受けたのはセレッソだけです。地元ですし「セレッソに入りたい」と思っていたので、受かったときは嬉しかったです。親も喜んでいました。でも「ここから」だとも言われました。(山口)蛍と同期ですが、当時からうまかったです。
-中学~高校-
セレッソU-15に入って、最初は付いていくのに必死でした。ただ、やれる部分も多かったですし、慣れてからは、自分の良さも出せるようになりました。練習は週3くらいで、土日が試合でした。みんなうまくて、練習していても楽しかったです。タカ(扇原貴宏)や(永井)龍が一つ下で入ってきて、彼らも最初からうまかった。セレッソU-15に入って、よりサッカーに打ち込むようになりました。練習がない日もボールを蹴っていました。セレッソに入って、意識は変わりました。「やらないと置いていかれる」という危機感も出てきました。友達と遊びたい気持ちもあったのですが、中学はサッカー中心の生活でした。特に練習したのがキックです。中学に入ってから、自分の武器はキックだと思ったので、的を決めて狙ったり、何本も蹴り込んでいました。中1の時は、梶野さん(梶野智チーム統括部長)のお兄さん(梶野智幸)が監督でした。ポジションは主に左サイドハーフで、たまにFWもやっていました。中1で、U-15に入って最初に出た大会でガンバと対戦した試合は印象に残っています。当時のガンバは周りからも「強い」と評判でした。そのガンバに勝てたのは嬉しかったです。それまで、「セレッソU-15はあまりガンバに勝てていない」と聞いていたんですけど、僕らの代は勝った試合も多かった。今、振り返っても、U-15の3年間は楽しかったです。チームメートにも恵まれて、切磋琢磨できました。年代別代表にも何回か入りました。
高校では、そのままセレッソU-18でプレーすることになりました。U-15でプレーしていた選手たちは、U-18へ上がるためのセレクションはなく、U-15でのプレーを見て決められました。半分くらいに絞られました。僕は試合にも出ていたので、上がれるとは思っていましたが、聞くまでは緊張しました(笑)。進路については、高体連も少し頭をよぎりました。本田(圭佑)選手が星稜高校でプレーしている姿を見て、星稜に行きたい思いも湧いてきて。高校選手権への憧れもありました。でも、特に誰にも言うことはなく、U-18に上がりました(笑)。この頃から、将来はプロでサッカーしたい思いが強くなりました。トップチームとは、同じ南津守のグラウンドで練習していたんですけど、時間帯が違ったので、あまり接することはなかったです。ただ、土日とか、たまに午前中に時間が重なってすれ違うときもありました。ちなみに、当時、僕が中3だった05年のリーグ最終節、J1優勝を逃した試合は、どっかの大会に行く遠征のバスの中で見ていました。PKを獲得した瞬間、ちょうどトンネルに入って映像が消えて、トンネルを出て映ったら外していて、「マジか!」っていう…(苦笑)。優勝を逃したことは、アカデミー生としてもショックでした。
U-18のレベルは、U-15からさらに上がりました。その中で、試合には高1の頃から出してもらっていました。自信も付いて、伸びていきましたね。高校になって体も大きくなり、高2、高3と上がるにつれて、フィジカルもどんどん強くなっていきました。技術はそこまでなかったんですけど、キックは3年間でかなり練習して、上達しました。何より高校生活で大きかったのは、海外遠征に行けたことです。高3に上がる前の春にスペイン遠征をして、レアル マドリードのユースとも試合をしました。海外の選手と試合をするのは初めて。新鮮でしたし、やれた部分もあったので、自信が付きました。高校で海外のクラブと対戦できることはあまりないと思うので、あの経験は大きかったです。07年にハナサカクラブができて、僕らの代から海外遠征に行かせてもらったので、感謝しています。そのスペイン遠征と同じくらい、U-18の3年間で印象に残っているのは、高3のJユースカップ決勝です。あのときの僕らは勢いに乗っていたし、蛍だけではなく、1つ下にタカや龍がいて、2つ下の(杉本)健勇もCBで出ていて、メンバーも揃っていたので優勝できると思っていたのですけど、ガンバとの決勝で負けました(苦笑)。最初に2点を決めて、幸先良くリードしたんですけど、後半、宇佐美(貴史)選手に決められてしまい、最終的には2対4で負けました。あの試合は悔しかったです。ガンバとは中高を通じて何度も試合をして、勝っているイメージの方が強かったのですが、あの試合で負けたことは、今でも強く印象に残っています。
監督は高1から高3まで副島(博志)さんで、その時々で必要なアドバイスをもらいました。昔、トップチームで監督をしていたときは怖かったようですが、当時は怖くなかったです。ちなみに、副島さんには高3の夏、「プロでやっていくには、前では通用しないから、左サイドバックの練習もしておけ」と言われました。実際、トップチームに上がっても、最初は前をやっていたんですけど、全然、試合に絡めず、2年目にレヴィー クルピ監督に左サイドバックにコンバートされて、試合に出るようになりました。副島さんの言っていたことは正しかったなと(笑)。U-18の3年間も大きな挫折などはなくやって来られましたが、トップチームへの昇格はギリギリだったと思います。蛍は年代別代表にも選ばれていたので、上がることは決まっていたと思うのですが、僕は当落線上だったかなと。トップ昇格の話は高3の夏に言われることが多いですが、僕の場合はもう少し後でした。何とか上がれたという感じで、ドキドキでした(笑)。U-18に入った頃からプロでやりたい気持ちは固まっていたので、トップ昇格できて本当に嬉しかったです。ただ、同時に「プロでやっていけるのか」という気持ちも沸いてきました。結局、U-15からトップまで上がれたのは、同期では蛍と2人だけでした。トップチームまで辿り着けた要因は、当たり前のことですが、毎日の練習に100%で取り組んだことが大きかったかなと。練習でやってきたことを試合で発揮できたことも大きかったと思います。練習をやっても、それを試合で発揮できなかったら意味がない。練習で力を付けて、試合でそれをどこまで発揮できるか試して、その繰り返しで成長できたと思います。セレッソのアカデミーで過ごした6年間は今の自分の原点です。なくてはならない期間でした。いいチームメートに恵まれたと思います。みんなで切磋琢磨しながらプロを目指して頑張った環境は大きかった。監督やコーチ、指導者にも恵まれました。セレッソのアカデミーの良さは、競争意識がある中でも、楽しくやれるところ。“チーム”で戦っている感じがずっとありました。それはプロになった今も、セレッソのカラーとして感じている部分です。
-プロ以降-
トップチームに上がって15年目の今年、初めてセレッソを出て移籍しました。BGパトゥム ユナイテッドFCに期限付き移籍したタイでの5ヶ月を振り返ると、初めての移籍だったのですが、いい経験になりました。環境面も特に不自由はなかったです。バンコク市内に住んでいたのですが、人も優しく、生活で困ることはなかったです。食事も練習後の夜はクラブで用意されて、朝と昼は近くのカフェやレストランで食べていました。近くに日本食もあり、不便はなかったです。サッカー面では、CBにケガ人が出ていたこともあり、行ってすぐ「CBはできるか?」と聞かれました。「できないです」とは言えなかったので(笑)、最初の5試合くらいはCBをやりました。そこからは3バックのウィングバックがメインでした。僕がいた5ヶ月で監督が3人ほど変わって大変でしたが、リーグ戦はほぼ全試合に出ることができました。タイはJリーグと違って、蹴るチームが多かったですね。前線に外国籍の大きな選手がいて、そこにボールを当てるのがうまいチームが勝つ。細かくつなぐチームもありましたが、蹴るチームが多かったです。あとはリーグ全体で見ると、日本の設備の良さを改めて実感することもありました。BGはグラウンドも綺麗でホームスタジアムの設備もしっかり整っていましたが、アウェイに行くと環境・設備面での差も大きい。今までセレッソ一筋でしたが初の移籍はこういった点も含めていい経験になりました。行く前は迷いもあったのですが、行って良かったですね。チームメートも性格のいい選手が多く、最初の監督の通訳が日本語も話せたので、チームに入るにあたって助かりました。BGには感謝しています。セレッソに戻ってきて、チームの調子もいいので、すぐに出られるとは思っていません。左サイドバックには(山中)亮輔と舩木(翔)がいて厳しい立場ではありますが、監督にアピールするだけです。ブレずに、自分のプレーを続けていくことが大事だと思っています。(香川)真司くんも僕より年上ですが、あれだけ走って素晴らしいパフォーマンスを見せている。僕も頑張らないとアカンなと。チームの目標であるトップ3とタイトルを目指して戦っていきたいです。
アカデミーも含めると、セレッソでのキャリアは21年目になります。振り返るとあっという間でした。途中、J2降格など辛い時期もありましたが、それも含めて、ここまでずっとセレッソと歩んできました。本当に魅力的なクラブですし、いいクラブに出会えたと思っています。感謝しかないですね。残りのサッカー人生で成し遂げたいことは、もうリーグ優勝しかありません。これまでルヴァンカップと天皇杯では優勝できたので、あとはもうリーグ優勝だけ。現役の間にセレッソでリーグ優勝したいです。リーグ優勝を達成できれば、思い残すことはありません(笑)。あと何年、現役でいられるか分かりませんが、同期の(キム)ジンヒョンと一緒にJ1で優勝したいですね。
CAREER
経歴
NATIONAL TEAM HISTORY
代表歴
PERSONALITYパーソナリティー
1 ニックネーム
マル2 利き足
左足3 足のサイズ(cm)
26.04 スパイクのこだわり
履きやすさ5 げん担ぎ・ルーティン
なんでも左足から6 自分のプレーの特徴
キック7 遠征に必ず持っていくもの
iPad8 オフの過ごし方
家族でお出かけ9 ストレス解消法
寝る!10 サッカーを始めた年齢(例:10歳)
9歳くらい11 サッカーを始めたきっかけ
兄がしていたので12 影響を受けた指導者
出会った全ての指導者13 仲の良い選手/理由
柿谷曜一朗/何をしててもおもろい14 憧れの選手
家長昭博15 今季対戦が楽しみなチーム/理由
すべてが楽しみです/まだ戦ってないので16 この人にだけは負けられない/理由
柿谷曜一朗/すごい存在だから17 将来の夢(サッカー面)
まだ言えません18 あなたにとってサッカーとは
すべて19 今季の目標(サッカー目標)
試合に出る20 セレッソ大阪の好きなところ
明るい21 セレッソ大阪のイメージ
ピンク22 大阪の好きなところ
大阪城23 地元(故郷)のおすすめ料理、場所
たこ焼き24 趣味・マイブーム
cafe巡り25 自分の性格
気分屋26 生きていて1番ワクワクする瞬間
選手入場の時27 人生で1番悔しかったこと
いっぱいあります28 座右の銘、好きな言葉
チャレンジ29 好きな芸能人/アーティスト/芸人
ベリーグッドマン、ケツメイシ30 好きな女性のタイプ
優しい、少し天然31 好きなアニメ/マンガ/ゲーム
slam dunk、NARUTO、コナン、クレヨンしんちゃん32 好きな映画のジャンル
アクション33 好きな音楽のジャンル
色々34 得意料理
たまご焼き35 好きな食べ物
寿司、ステーキ、パッタイ36 最近チャレンジしたこと
タイに移籍37 子どもの頃の夢
サッカー選手38 子どもの頃にやっていてよかったなと思うこと
水泳39 ほっとする瞬間
家に帰った時40 いつもつけている香水(銘柄等)
HERMES