PROFILE
プロフィール
- 名前マテイ ヨニッチ(マテイ ヨニッチ)
- 生年月日1991/01/29(32歳)
- 出身地クロアチア
- 身長/体重187cm / 83kg
- ポジションDF
PLAYER'S HISTORY
インタビュー
-幼少期-
友達との遊びの中からサッカーを始めました。小学生になるまでは公園で蹴っていました。故郷クロアチアのスプリトという街はバスケなどスポーツが盛んですが、サッカーが1番人気です。自分もサッカー以外のスポーツはしていません。1年生になって、ハイドゥク スプリトのアカデミーに入団しました。クロアチアでも1、2を争うビッグクラブです。伝統もあり、サポーターも多い。アカデミーに入るにあたっては、セレクションがありました。15人くらいが選ばれました。最後の最後まで名前を呼ばれず、ちょっとドキドキしていました(笑)。受かった時は嬉しかったですね。大きなクラブのアカデミーですし、100人以上トライアウトに来ていた中での15人に選ばれたので、嬉しかったです。
-中学~高校-
サッカーと並行して、学校もきちんと行っていましたよ。ただ、学業に関しては、良くも悪くもなく、真ん中くらいだったかな(笑)。17歳までは練習と試合を繰り返していました。小さい頃から背が高く、基本的にポジションはずっとCBです。アカデミーで練習する内にレベルも上がっていきました。一気に伸びと思います。16、17歳の頃には、アカデミーで一番才能があったと自負しています。必ずトップチームに上がり、プロになれると思っていました。この時期、年代別代表にも呼ばれるようになりました。上の代に呼ばれることもあり、いい経験になりました。U-19までは選ばれていましたね。(アンドレイ)クラマリッチもいて、彼はズバ抜けて上手かった記憶があります。18歳の誕生日に、ハイドゥク スプリトでプロ契約を結ぶことができました。当然ですが、アカデミーに比べて、レベルは格段に上がりました。半年、練習した後、NKザダルにレンタル移籍しました。ここでプロデビューできました。アウェイの試合で負けてしまったので、デビュー戦にあまりいい記憶はありませんが(苦笑)。
-プロ以降-
ザダルで半年プレーした後、ハイドゥク スプリトに戻りました。戻ればプレーする機会はないと思っていたので、本当は戻りたくなかったです。実際、試合に出るメンバーは決まっており、僕はほぼ出られませんでした。ただ、このクラブで試合に出ることは名誉なことでもあり、何試合か出たのですが、僕にとってはその試合が実質のプロデビューだったという思いもあります。プロ3年目は再びザダルでプレーします。4年目にまたハイドゥク スプリトに戻り、カップ戦で優勝しました。ただ、自分は1回戦に出たくらいで、貢献したわけではありません。結局、ハイドゥク スプリトではあまり試合に出ることはできませんでした。自分としては、実力も付いてきたと思っていましたし、試合に出してもらえれば、いい結果を残せる自信もあったのですが、監督に認めてもらうことができず、チャンスがなかった。この時期はサッカー人生の中でも辛かったです。5年目の途中にNKオシエクへレンタル移籍して、6年目もプレーしました。ここで試合に出ることができ、僕のサッカー人生は救われました。ハイドゥク スプリトからは、「行かせたくない」と言われていたのですが、僕は試合に出たいから、「どうしても行きたい」と説得し、最後は送り出してもらいました。トップチームでは出場機会を得られませんでしたが、アカデミーを含め長い時間プレーしたハイドゥク スプリトが、自分のサッカー人生の原点であることは間違いありません。今、振り返ると、当時の経験が僕を強くしてくれたと思います。
15年に、韓国の仁川ユナイテッドFCへ移籍しました。正直、なぜKリーグに行ったのか、プレーすることになったかは、自分でもハッキリとは分かりません(笑)。一つ言えることは、人生の中で一番難しい決断だったということです。クロアチアでは、最後の方はオシエクで試合に出てコンディションも良く、プレーも良かった。他の欧州リーグにチャレンジしたいとも思っていました。ただ、僕の代理人で友人でもある韓国人の方が、「君なら絶対にKリーグで成功できる」と言ってくれたので、最終的に決めたのだと思います。Kリーグのことは何も知らなかったので、代理人の言葉を信じるしかなかったです。結果的に、1年目から試合に出てリーグは7位、カップ戦でも決勝に行けました。2年連続でベストイレブンにも選ばれて、いいシーズンを過ごせたので、この選択は間違っていなかったと思います。ちなみに、英語に関しては、韓国でプレーしたこの2年で覚えました。通訳がいなかったので、どうにかしてコミュニケーションを取る必要があったのです。僕の場合は、ベルギーの選手と会話するのが英語で、そこで英語を学ぶようになりました。その選手の英語はジョルディ(クルークス)よりも上手でしたよ(笑)。この時期、すでに結婚していたので、韓国でも一緒に過ごしました。最初は苦労しましたが、ベルギーの選手と家族ぐるみで仲良くしてもらっていたので、生活もすぐ順応できました。彼は僕より長い間、韓国にいたので、色々と世話してもらいました。奥さんとは、クロアチアで結婚しました。小さい頃から同じマンションに住んでいたので、お互いの存在は知っていたのですが、僕より年上で学年が違い、遊ぶきっかけがなかった。ただ、19歳の時、あるきっかけで遊ぶことになり、そこから徐々にお互いの気持ちが通い合い、付き合うことになりました。今では長女と長男と4人家族で楽しく暮らしています。奥さんはもう日本を離れたくないようです(笑)。
17年に、セレッソ大阪へ移籍します。オファーを受けた時は、日本に行きたかったので、全く悩まず決めました。韓国でJリーグの試合を見る機会もあり、選手も含めてレベルが高いことは分かっていたので、チャレンジしたい気持ちがありました。1年目にいきなり二冠を獲れて、その後もACLでプレーしたり、セレッソでは本当にいいキャリアを送れています。ちなみに、昨年のワールドカップでの日本対クロアチアは、クロアチアを応援していましたが、日本にもいい結果を出して欲しい気持ちがありました。個人的には、日本の方がいいサッカーをしていたと思います。クロアチアの中でJリーグの認識は低いのですが、あの試合後、僕に問い合わせがいくつも来て、「日本、強いじゃん!」と言われました。凄く嬉しかったですね。「毎週こういう選手と対戦したり、一緒にプレーしているんだ」と誇らしい気持ちになりました。気付けば、セレッソでのプレーは6年目になります。今までで一番長いクラブになっています。21年に中国での契約が終わった後、セレッソに戻りたい気持ちがありました。セレッソから再びオファーをもらった時は、凄く嬉しかったです。実際に戻ってくると、家に帰ってきたような気持ちになりました。戻れて幸運だと思いますし、できるだけ長くこのチームにいたいと思っています。
CAREER
経歴
PERSONALITYパーソナリティー
1 ニックネーム
ヨニ2 利き足
右足3 足のサイズ(cm)
294 自分のプレーの特徴
味方を引き立たせる5 オフの過ごし方
家族と過ごすこと6 ストレス解消法
家族と過ごすこと7 サッカーを始めた年齢
6歳半8 サッカーを始めたきっかけ
友達とはじめて、同じサッカーアカデミーに入った9 仲の良い選手/理由
Jordy, Kakeru, Yamashita, Riku/ジョルディとは英語で会話でき、一緒にいる時間が長い。他の選手とは良い雰囲気ができている。10 憧れの選手
Thiago Silva11 今季対戦が楽しみなチーム/理由
ガンバ大阪/ダービーマッチだから12 将来の夢(サッカー面)
健康でいること13 もしサッカー選手じゃなかったら
消防士14 あなたにとってサッカーとは
好きな事をして楽しめてる15 今季の目標(サッカー目標)
3つ目の星16 セレッソ大阪の好きなところ
良い人たちの集まり17 セレッソ大阪のイメージ
今の居場所18 大阪の好きなところ
買い物19 地元(故郷)のおすすめ料理、場所
魚20 趣味・マイブーム
ooki C21 自分の性格
自分には答えられない22 生きていて1番ワクワクする瞬間
子どもが生まれた時23 人生で1番悔しかったこと
11ヶ月家族と離れていた時24 座右の銘、好きな言葉
Ajmo25 初めての給料の使い道
色々なものに使った26 好きな女性のタイプ
常識ある女性27 好きな映画のジャンル
アクション系28 好きな音楽のジャンル
落ち着く系29 得意料理
ビーガン30 好きな食べ物
ピーナツバターとジャム31 苦手な食べ物
脂っこいもの32 この世で一番好きなもの
優しい人33 この世で一番怖いもの
空腹34 今一番欲しいもの
家族と一緒にいたい35 最近嬉しかったこと
健康36 これから取り組みたいこと、やってみたいこと(サッカー以外)
読書37 子どもの頃の夢
プロサッカー選手38 いつもつけている香水(銘柄等)
Jo Malone39 将来の夢(プライベート)
子どもをもっと作る