TWELFTH
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いつも最高の準備を心掛けて

写真=岩波純一 文=小田尚史

桜の戦士たち一人ひとりにフォーカスし、そのサッカー人生の歩みを紐解いていく
ファンクラブ会報誌『TWELFTH』のウェブ限定コンテンツ「SAKURA BIOGRAPHY」。
第4回は、安定した守備と熱い檄でチームを最後方から支える丹野研太が登場。
これまで積み重ねてきた自身のサッカーキャリアについて大いに語ってもらった。
前編では幼少期から学生時代、2度の移籍、ターニングポイントに迫る。

丹野が自ら描いた、サッカー人生における心の充実度を示した折れ線グラフ。その落差からキャリアのターニングポイントも見て取れる

#01
指導者の一言がきっかけでGKに転向
順調な成長曲線の先に待っていた「+100」

 サッカーを始めたのは、3つ年上の兄の影響です。本格的にプレーするようになったのは小学1年生。兄と同じ、地元のスポーツ少年団に入りました。最初はDFとしてプレーしていて、5年生くらいまではフィールドプレーヤーだったんです。

 GKに転向したのは、「一回、GKをやってみないか?」という指導者からの誘いがきっかけでした。というのも、当時GKをやっていた子の身長がそれほど高くなく、高学年になるにつれてサイズ的にGKとしてプレーするのが難しくなって。そんな時、僕に声が掛かったんです。

 小学6年の時には、ぶっつけ本番のような感じでGKとして大会に初出場。どうなるかと思いましたが、PK戦で何本か相手のシュートを止めたり、活躍できたことでGKとしての楽しさを覚え、それからはずっとGKです。(フィールドプレーヤーとして)チームの中心と言えるような選手でもなかったし、フィールドプレーヤーへの未練はなかったですね。それよりも、GKとして活躍できたことがうれしかった記憶があります。

 中学(ジュニアユース)と高校(ユース)は、FCみやぎバルセロナでプレーしました。僕たちの一学年上の代で創設された地元・宮城県の街クラブです。ちなみに、スペインの名門クラブ、FCバルセロナとは何の関係もありません(笑)。

 FCみやぎバルセロナは香川真司選手(ドルトムント)が在籍していたことで有名になりましたが、彼は僕が中学3年の時に新入生として加入しました。2学年も離れているのでジュニアユース時代はそれほど絡みはなかったですが、ユースになると香川選手は1年生の頃から試合に出ていたので接点も増えました。ただ、確かに当時からうまかったですが、そこまでスーパーな選手ではなかったというか。当時は、同じ宮城県のチームでプレーしていた遠藤康選手(鹿島アントラーズ)のほうが評価されていたくらいです。

 当時の香川選手は運動量や技術はあったけど、まだ体の線が細くて。いい選手ではあったものの、「まさか、あそこまで登り詰めるとは……」と当時の関係者はみんな感じていると思います。本人の努力はもちろん、プロになってからの指導者やチームメートとの巡り合わせなど、様々な要因があって一気に階段を駆け上がっていったなという印象です。

写真=岩波純一 GK転向のきっかけや香川真司との懐かしい思い出について明かしてくれた丹野。グラフが示すとおり、心の充実度は一度も落ちることなくどんどん高まっていった

 僕自身の話に戻ると、ジュニアユースでは3年時に全国大会(日本クラブユースサッカー選手権大会)に出場しました。その後、ユースに昇格できましたが、当時のFCみやぎバルセロナはまだ創設されたばかりのチームだったので、僕が高校1年の時、先輩は1学年上の2年生しかいなくて、しかも人数は4人だけ……。そんな1年生と2年生だけで編成されたチームでクラブユースの全国大会に出場したんですが、案の定、ガンバ大阪と名古屋グランパスにはボコボコにされました(苦笑)。でも、ジェフユナイテッド千葉には何とか1-0で勝って。そうしたら、その試合をたまたまU-16日本代表のGKコーチが見ていたみたいで、U-16日本代表に呼んでもらえたんです。

 この出来事がプロを意識するきっかけになりました。それまでは宮城県選抜にも入っていなかったし、「プロを目指す」と言えるほどのプレーヤーじゃなかった。高校も、そのまま大学に上がれる私立の学校だったので、サッカーを続けるにしても大学でやるんだろうなと漠然と思っていたくらいでしたから。初めての代表選出は本当にうれしかったですし、グラフも一気に「+100」になりました。

 ただ、FCみやぎバルセロナ時代は、専門的なGK練習ができていたわけではなかったんです。当時は土のグラウンドでしたし、セレッソのアカデミーのようにGKコーチが常にいる環境でもなかった。だから、練習メニューを独学で覚えたり、日本代表や選抜チームなどで指導を受けたメニューを持ち帰ったり、自分たちでフィールドプレーヤーとGK、お互いにとって役に立つ練習メニューを考えていました。例えば、シュート練習ならFWがシュートを打つ、クロス練習ならサイドバックがクロスを上げて、それにGKが対応するといった感じです。

 そんなふうに学生時代はサッカーに没頭していたので、今振り返ってみても、中学もそうですが、高校ではさらにサッカー漬けの日々でしたね。15時、16時頃に学校が終わったらすぐに自転車で練習場に向かい、そこから21時ぐらいまで練習。帰宅するのは22時を過ぎていました。だから、高校生活の思い出は少ないですね。高校3年になると、大会に出場したり、Jクラブの練習にも参加していたので学校は休みがちになり、文化祭も不参加。学校行事の思い出はほとんどありません。でも、そのぶんチームでの思い出は濃いので、後悔は全くありません。

写真提供=丹野研太 中学・高校時代は、FCみやぎバルセロナでプレー。恵まれた環境ではなかったが、自分たちで練習メニューを考えながらレベルアップを図り、高校2~3年時には東北選抜にも選ばれた

#02
プロ入り後は実力差を埋めるべく練習の虫に
意外な形で訪れたセレッソデビュー戦

 2004年の春、高校3年生になる前にセレッソの練習に参加しました。当時スカウト担当だった小菊昭雄さん(現コーチ)と、FCみやぎバルセロナの監督が知り合いだった縁もあって実現したんです。当時は森島(寛晃)さんやアキさん(西澤明訓)といった日韓ワールドカップに出場した日本代表選手もいて、「おぉ!」ってなりました(笑)。当然ですが、環境から何からFCみやぎバルセロナとは全然違いましたし、レベルの差を痛感しました。その後、他チームの練習にも参加させてもらいましたが、最初に練習参加したセレッソに行きたいと、気持ちは決まっていましたね。

 ただ、練習参加時に感じたレベルの差は、05年にプロ入りして以降も数年間は感じ続けていました。だからプロ1、2年目はひたすら練習、練習の毎日。当時のGKコーチも、今と同じノブさん(武田亘弘)でしたが、基本技術の練習をずっとやっていたことを覚えています。

 そんな中、プロ3年目の2007年途中にV・ファーレン長崎へ期限付き移籍することになりました。当時スカウトの統括責任者だった勝矢(寿延)さんと長崎の関係者につながりがあって、前年には小松塁さんも長崎へ期限付き移籍していたんです。ただ、当時の長崎は九州リーグに属していた、JFLを目指すクラブ。環境は厳しかったです。それでも原田武男さん(長崎コーチ)をはじめ元Jリーガーも10人ほどいて、「もう一回、上に行ってやる」というモチベーションは高かったですね。チームとしては半分プロ、半分アマチュアみたいな編成で「来年サッカーを続けられるかどうか分からない」という瀬戸際で勝負している選手も多かった。僕が在籍したのは約半年という短い時間でしたが、すごく勉強になったし、セレッソでは味わえない経験ができました。

 その経験は08年にセレッソに戻った時、気持ちに変化を起こしてくれました。Jリーグを目指しても辿り着けない人たちがいるという現実を知り、サッカーの厳しさを感じると同時に、改めてセレッソという恵まれた環境でプレーできるありがたみに気付けたし、「どうにか這い上がろう」という思いが一段と強くなりました。

 08年終盤には、当時はまだ韓国の大学生だった(キム)ジンヒョンが練習生として練習参加に来ました。最初の印象は……「デカいな」と(笑)。でも、当時はまさか翌年の開幕スタメンになるなんて思いもしなかったし、ここまで一緒に長くプレーすることになるとも思いませんでした。

 ジンヒョンは、すぐに日本語を覚えました。当時は独身で、韓国人選手もチームで彼一人だったから、日本人選手の輪に入るしかなかったですからね。僕も当時は独身だったので、よく一緒にご飯にも行きました。10年に松井謙弥選手(水戸ホーリーホック)が加入してからは、3人で食事をしたり、普段の生活でもコミュニケーションを取っていたので、日本語も自然と覚えたんじゃないかな。でもジンヒョンの場合、言葉よりも先に心が日本人になっていました(笑)。

 話を自分に戻すと、09年のJ2最終節にセレッソでのJリーグデビューを果たしました。でも、デビューと言っていいのかどうか……(苦笑)。というのも、試合終了間際にジンヒョンが退場して、交代で僕が入ったんですが、試合はすぐに終わってしまって。時間にして、ほんの数秒(苦笑)。デビューした実感は全くなかったです。

 それにジンヒョンが退場した場面も見ていなかったんですよ。ウォーミングアップをしていたら、急に交代を告げられて、「えっ、何?」って。よく考えたら、そんな終了間際の時間によく交代枠が余っていたなとも思います(笑)。まあ、インパクトはありましたし、笑い話にはなりました。でも、その後どれだけシャケさん(酒本憲幸)にイジられたことか(苦笑)。

写真=Jリーグ セレッソでプロ入りしたものの、周囲とのレベルの差を痛感。なかなか出場機会に恵まれない時間が続いたが、腐ることなく日々の練習や長崎への期限付き移籍で自分を磨き続けた

#03
大分へ「チャレンジ」の移籍を決断
プレーオフ史上最大の下克上で主役を演じる

写真=Jリーグ 11年途中に大分へ期限付き移籍。無失点に抑えた天皇杯2回戦を契機に少しずつ信頼を勝ち取ると、リーグ戦でも6試合に出場。翌年には強い覚悟のもと完全移籍を果たした

 09年の終盤はGKとして2番手の立場になりましたが、J1に昇格した10年はジンヒョンがケガをした中で、松井選手が試合に出て、自分はベンチという試合が多かった。さらに11年になると、今度は3番手の立ち位置になってしまい、正直「どうしよう……」という思いがありました。そんな中で当時、大分トリニータの監督をしていた田坂和昭さん(福島ユナイテッドFC監督)に誘われて。自分としても「チャレンジしよう」という思いで、11年7月に期限付き移籍を決断しました。

 大分では、天皇杯2回戦で初めて試合に出場しました。対戦相手は(柿谷)曜一朗とハマちゃん(濱田武)が在籍していた徳島ヴォルティスで、2人がニヤニヤしながら「試合に出てるやん」みたいな感じでイジってきたことを覚えています(笑)。ただ、試合には1-0で勝利できました。その後もリーグ戦6試合に出場し、翌年の完全移籍を決意したんです。

 完全移籍については「退路を断つ」じゃないけど、覚悟を持って決めました。そもそも、大分に期限付き移籍した時点で(セレッソに)戻れるとは思っていませんでしたからね。大分である程度キャリアを積めなかったら……という強い思いもありました。

 結婚したのも、ちょうどこの時期です。完全移籍に合わせたわけではなく、大阪にいた頃から結婚は決まっていました。妻とはセレッソ加入後に知り合い、長く付き合いましたからね。11年に僕が大分に行ってからは遠距離になり、12年に結婚した後もしばらくは離れて暮らしていましたが、13年に大分に呼び寄せて一緒に生活を始めました。結婚したあたりからは出場機会も増え、その中でいいことも悪いことも一緒に乗り越えてきた。妻はどんな時でも明るく支えてくれましたし、子どもも生まれて、家族が増えたことも自分にとってすごく大きな出来事でしたね。

写真=Jリーグ 11年途中に大分へ期限付き移籍。無失点に抑えた天皇杯2回戦を契機に少しずつ信頼を勝ち取ると、リーグ戦でも6試合に出場。翌年には強い覚悟のもと完全移籍を果たした

 完全移籍して、結婚もした12年ですが、実はシーズン開幕当初は3番手からのスタートだったんです。でも、J2リーグ最終節の1つ前、第41節モンテディオ山形戦で転機が訪れました。当時、正GKだった清水圭介選手(京都サンガF.C.)が試合当日に体調不良になって、急遽、僕が出場することになったんです。唐突に訪れた出番でしたが、無失点に抑えて試合に勝つことができました(3-0)。すると、勝利した流れを切らないためか、最終節(第42節松本山雅FC戦/0-0)も出場し、そのままJ1昇格プレーオフに突入しました。

 Jリーグとしても初めてのJ1昇格プレーオフというで、すごく注目されていました。決勝は国立競技場開催。個人として初の晴れ舞台というか、大舞台でした。大分は6位でのプレーオフ出場だったので、最も不利な状況で立場的には完全にチャレンジャーでしたが、京都との準決勝ではデカ(森島康仁/栃木ウーヴァFC)が直接FKを決めたり、京都は染谷悠太選手が退場したり……すべてがうまく運んで、結果的に4-0で勝利したんです。

 でも、千葉との決勝は攻められる時間が長く、厳しい試合展開でした。それでも0-0で何とか耐えていると、86分に先制点が入ったんです。(プレーオフのルール上)0-0だと(リーグ戦で下位の)大分が敗退するので、どこかで攻めないといけませんでした。だから終盤にDFを1枚前線に上げて、狙いどおり1点をもぎ取ることができたんです。でも、そこからはアディショナルタイムも含めて試合が終わるまでがすごく長かった(笑)。下馬評では千葉が有利だったと思いますが、田坂さんが準備してきたことが全部当たりました。自分としても、試合に出てJ1昇格を決められたので、感慨深かったですね。結果的には、急遽出場した第41節山形戦からJ1昇格プレーオフまで4試合すべて無失点。自分にとって大きなターニングポイントになりました。

写真=Jリーグ 12年はシーズン開幕当初こそ3番手だったが、J2第42節山形戦で訪れたチャンスを生かして立場を逆転。プレーオフでも守護神として奮闘し、リーグ戦6位からのJ1昇格という下克上へ導いた
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いつも最高の準備を心掛けて

写真=岩波純一 文=小田尚史

桜の戦士たち一人ひとりにフォーカスし、そのサッカー人生の歩みを紐解いていく
ファンクラブ会報誌『TWELFTH』のウェブ限定コンテンツ「SAKURA BIOGRAPHY」。
第4回は、安定した守備と熱い檄でチームを最後方から支える丹野研太が登場。
これまで積み重ねてきた自身のサッカーキャリアについて大いに語ってもらった。
後編はJ1を戦った大分時代やセレッソ復帰の決断、そして初タイトル獲得に焦点を当てる。

キャリアを振り返りつつ、丹野自身が記した心の折れ線グラフ。その浮き沈みから、懸命にサッカー人生を歩んできたことが窺い知れる

#04
J1デビューを果たし、古巣セレッソとも激突
試合後には“運命的な出来事”が……

 J1に昇格した2013年は、大分トリニータでリーグ戦25試合に出場しました。途中、何試合かケガでメンバーから外れたり、J2降格決定後もケガによって出られなかったりもしましたが、それ以外の試合では出場することができました。ただ、ずっと(正GKの座を)争っていたので“安泰”という感じではなかったですね。

 僕にとってのJ1デビュー戦となったFC東京戦のことは今でも覚えています。ホームでの開幕戦ということで注目度も高く、みんな気合が入っていました。試合としては大分が先制したんですが、前半のうちに追いつかれ、後半途中には僕が相手CKのボールを取ってボランチにボールをつなげようとしたところを長谷川アーリアジャスール選手(名古屋グランパス)にカットされてしまって、そのまま決勝ゴールを食らい……悲惨なJ1デビューになりました(苦笑)。相手のシュートをかなり止めましたし、チームとしてもやれている部分もあったのですが、結果として自分のミスで負けてしまったので、ほろ苦いJ1デビューでしたね。

 第8節では、キンチョウスタジアムでセレッソとも対戦しました。リーグ戦の前に、ホームでのナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)でも対戦したんですが、その時は意識し過ぎてしまっていいプレーができず(1-2で敗戦)……。でも、リーグ戦の時は一度対戦していたぶん、落ち着いてプレーできました。

 試合のこともよく覚えています。結果的には0-0でしたが、ピンチもあった一方でチャンスも作れました。セレッソのセンターバックはモニさん(茂庭照幸)と(藤本)康太。当時のレヴィー(クルピ監督)は2バックのような感じだったので、得点機も何度かありました。セレッソの前線は(柿谷)曜一朗、(杉本)健勇の2トップでしたが、シャケさん(酒本憲幸)のクロスの特長も分かっていたし(笑)、外国籍選手以外はほとんど知っている選手だったので、紅白戦をやっているような感覚で冷静に守れた記憶があります。

 そういえば、実はこの試合後の夜に子どもが生まれたんです。試合が終わって(妻の実家がある)和歌山県串本町に駆けつけたら、その日の夜というか、朝に生まれて、無事に立ち会うことができました。古巣と対戦した試合後に第一子が誕生するという、すごく運命的な巡り合わせだったんです(笑)。

写真=Jリーグ 13年は大分の正GKとしてJ1リーグ25試合に出場し、古巣セレッソとの対戦も実現。結果的にはJ2降格の憂き目に遭ったが、苦しむチームの中で奮闘し続けた

#05
常に大事にしてきた自分の中での“線引き”
才能ではなく、努力で手にした“声”という武器

写真=岩波純一 セレッソ復帰を決めた思い、GKとしての取り組みについても語ってくれた丹野。たった一人しか出場できない特殊なポジションだからこそ、お互いへの思いや結びつきも深いようだ

 翌14年、セレッソへの復帰を決断しました。(不動の正GKに成長していたキム)ジンヒョンがいる中でセレッソに戻ることを選ぶのは覚悟も必要でした。ただ、別のJ1クラブ(からの2番手としてのオファー)なら考えましたが、他ならぬセレッソからのオファーだったので復帰を決めたんです。やっぱりセレッソに愛着があったし、まさか戻れるとは思っていなかったので、声を掛けてもらえたことは素直にうれしかった。それに大分でのプレーが評価されたのだと思うと、なおさら意気に感じるところもありました。

 セレッソに復帰した14年を振り返る前に、せっかくの機会なので、普段GKとしてどんなことを考えて練習や試合に取り組んでいるのか、そのあたりの話もしようと思います。

 最初にセレッソに加入した当時は、前編でも話したとおり、とにかく練習するしかありませんでした。(他のGK陣と)同じ土俵に立てるくらいまでレベルアップしないといけない。そういう気持ちでしたね。ある程度、年齢を重ねてからはシーズンによっては紅白戦にも出られない状況もあって辛さも感じましたが、そこは自分自身で乗り越えるしかない。メンタル面は、すごくシンプルだと思います。たとえ試合に絡めない期間でも、練習で妥協し始めたらキリがないし、自分でやると決めたことはやり切るしかない。その線引きは自分の中でしっかりあるし、常に大事にしています。

 苦しい時期を乗り越える上で支えになった人? どうだろう……。小菊(昭雄)さんの存在は大きかったです。僕のサッカー人生におあける節目、節目できっかけを与えてくれましたから。いろいろな決断をするにあたって、常に相談もしていました。僕自身のこともすごく理解してくれていますしね。

写真=岩波純一 セレッソ復帰を決めた思い、GKとしての取り組みについても語ってくれた丹野。たった一人しか出場できない特殊なポジションだからこそ、お互いへの思いや結びつきも深いようだ

 GKの練習って多くても3~4人で、あとはGKコーチがいるだけ。狭いエリアでの練習も多いし、フィールドプレーヤーよりもお互いの距離感は近いと思います。一緒にいる時間も長いですからね。そんな中で僕とジンヒョンは、ギスギスした雰囲気の中で練習や試合をやりたくないという思いがあります。だから、基本的にそういう関係にはならないように意識していますね。もちろん試合までは競争ですが、誰が出場するか決まったら、そこからはチームメートとして素直にサポートする。それはフィールドプレーヤーでも同じですよね。

 もし仮に、ピッチに立っている選手に対して「ケガをしろ」、「失敗しろ」なんて思うことがあるとしたら、自分が出場している時にそう思われても仕方がない。僕としては「それはおかしいでしょ?」というのが基本的な考え方。だから、試合に出るメンバーが決まってしまえば、そこからはサポートに徹します。逆の立場になった時を考えれば、周りから助けられることも多いですからね。だから、そこ(ピッチに立てない時は仲間をサポートすること)は心掛けていますし、チームとして常にそういう雰囲気を作れるようにと思っています。

 GKは後方からチームメートに声を掛けることも大事な役割ですが、試合中や練習中のコーチングは基本的にネガティブにならないように意識しています。昔からコーチングは積極的にやっていましたが、大分時代に当時監督だった田坂和昭さん(福島ユナイテッドFC監督)に言われたんですよ。「それ(ポジティブなコーチング)が持ち味だ」と。その言葉は今でも心に留めています。

 声掛けって才能ではないというか、努力でカバーできるところ。でも、声を出せることは、その人の強みになります。僕も最初の頃は頑張って、意識して声を出していましたが、今では自然と声が出るようになって、それが自分の武器になりました。

 僕自身が思うGKとして大事なことは味方に安心感、安定感を与えられること。時にはビッグセーブなどの大きなプレーも必要ですが、ミスのない積み重ねが何より大事。それは日頃の練習から信念を持って取り組んでいます。練習にしても、周りから見れば同じことの繰り返しかもしれないけど、それをどれだけ徹底してやれるかが大事だと思います。

 キャリアを重ねていく中では、GK陣の雰囲気作りだけでなく、「よりチームのために」という思いで、チーム全体の雰囲気についても考えるようになりました。特に大分から復帰した14年に降格して、そこから苦しんだ時期は「何としてもJ1に上がる」がチームのテーマでしたが、正直うまくいかない期間も多かった中で「どうしたら上向くのか」と。ジンヒョンが鎖骨を骨折した15年は、リーグ戦でも19試合に出場しましたし、さらにチームに対して考えることは増えました。ジンヒョンとの関係性にしても、お互いに様々な経験を積み、年も重ねて、昔よりも「チームのために」という思いが強くなっていると感じます。

 だからこそ、16年にJ1復帰を果たせた時にはホッとしました。ただ、J1に上がってどれだけやれるのか。「またJ2に落ちるかもしれない」という怖さもありましたし、(J1で)最初からうまくいくとは思っていませんでした。

J2でもがき苦しんだ15年、16年。キャリアを重ねる中でより“チーム”を意識し始めた丹野は、より良い雰囲気作りにも心を砕いた

#06
紆余曲折の末に手にした待望の初タイトル
燃え尽きるまでやり抜くために続くチャレンジ

 J1に復帰して迎えた17年は、セレッソの選手として初めてJ1のピッチに立つことができました。第2節浦和レッズ戦です。これほど早く出番が訪れるとは思っていなかったですが、大分時代にJ1でプレーしましたし、セレッソでもJ2である程度は出場していたので、そこまで緊張することはなかったです。ただ、スタジアムが(大勢の浦和サポーターで埋まる)埼玉スタジアムでしたからね。まだチームとしてもうまくいっていない時期で不安もありましたし、難しい試合でした(1-3)。

 その後、ホームで迎えた第4節サガン鳥栖戦に1-0で勝利できたことは本当にうれしかったです。チームとしてもJ1復帰後のリーグ戦初勝利でしたし、無失点で終えられましたからね。僕自身にとっても、すごく大きな試合になりました。

 17年はカップ戦での出場機会が増えたシーズンでもありました。選手全員がモチベーション高くプレーできていて、その中で(カップ戦で勝ち進み)タイトルに近づくにつれて、チームがどんどん一つになっていった。ルヴァンカップ決勝については(準々決勝や準決勝で勝ち上がりに貢献しただけに)、周りから「決勝に出たかったのでは?」と言われることもありましたが、監督としては普通そういう決断(ジンヒョンの先発起用)をするだろうと思います。それにジンヒョンはジンヒョンで相当なプレッシャーがあったはずですからね。

 タイトル獲得の瞬間は、本当にうれしかったです。セレッソでプロ入りした05年に「いきなり優勝しちゃうの?」みたいな状況からタイトルを逃した経験もあったし(苦笑)、そこから本当に長かったですからね。チームとしても浮き沈みを繰り返す中で「タイトルを獲りたい」という思いをずっと持っていたので最高でしたし、グラフも一気に「+100」まで跳ね上がりました。

昨シーズンはクラブ史上初タイトルを含む2冠達成に大きく貢献。自身としても移籍を始め様々な紆余曲折を経ての初戴冠だっただけに、その喜びは大きかった

 僕自身はこれまでV・ファーレン長崎や大分への移籍を経験していますし、セレッソで出場した試合数も少ないですけど、セレッソへの愛着は強いと思っています。外に出たぶん、見えたモノもあったし、戻ってきて分かることもある。セレッソの魅力は、やっぱりアットホームなところ。そういった良さを残しつつ、ピッチでの厳しさも持って、これから新しい選手がどんどん出てくれば、クラブとしていい形で継続していけると思います。もう少し浮き沈みがないようにしないといけないですけどね(苦笑)。

 今シーズンは厳しい1年になりました。ただ、最低限J1に残留できたことは良かったです。J1に残っていれば味わった経験や悔しさを次のシーズンにつなげられるけど、落ちてしまったら取り返しがつかないですから。

 個人的には今シーズン、AFCチャンピオンズリーグに初めて出場できました。これまで海外で公式戦を戦ったことがほとんどなかったので貴重な機会になったし、相手のレベルや雰囲気も含め、大きな経験になったと思います。ブリーラム・ユナイテッド戦、広州恒大戦ともに難しい試合になりましたが、もう少しいい準備というか、いい形で試合に向かっていければ違う結果を得られたかもしれない。そこはクラブとしても足りなかったと感じますし、ACLに対する考えが少し甘かったのかもしれません。それぞれの立場で「ああしておけば」という悔しさはあるはずだけに、それを糧にしていくしかないと思います。

 ここまで、自分のサッカー人生や普段考えていることを振り返ってきましたが、大きなケガをすることなくキャリアを積めているのは有り難いことです。先日、川口能活選手(SC相模原)が引退を発表しましたが、僕自身も燃え尽きるまでやりたいと思っています。川口選手は、僕がGKを始めた頃にフランス・ワールドカップで活躍していたので、すごくインパクトがあったし、(川口選手仕様の)GKグローブも買いました(笑)。

 今年で32歳を迎え、「ベテラン」と呼ばれる年齢になってきましたが、僕自身はまだまだ成長できると思っています。だから、これからもいろいろな意味でチャレンジしていきたいし、今までの経験を生かして、もっともっと成長したいです。

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