TWELFTH
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感謝の気持ちを忘れずに

写真=宮原和也 文=岡本 亮

桜の戦士たち一人ひとりにフォーカスし、そのサッカー人生の歩みを紐解いていく
ファンクラブ会報誌『TWELFTH』のウェブ限定コンテンツ「SAKURA BIOGRAPHY」。
第8回はセレッソ在籍15年、プロサッカー人生を桜一筋で過ごしてきた藤本康太が登場。
これまで歩んできた自身のサッカーキャリアについて、振り返ってもらった。
前編ではサッカーとの出会いや学生時代に焦点を当て、その軌跡を辿る。

藤本自身が、これまでのサッカー人生を振り返りながら描いた充実度を示す折れ線グラフ。プラスの時期がほとんどであることから、サッカーを楽しみながら過ごしてきたことが分かる

#01
攻撃的なプレーヤーとして活躍した小学生時代
全国大会ではセレッソとの運命的な対戦も

 サッカーを始めたのは……いつだったのか、正直覚えていません(笑)。気がついたら自分の周りにサッカーボールがあって、友達とずっとボールを蹴っていました。小学校の10分間の休み時間でも、校庭に繰り出してサッカーをしていましたね。

 小学生の頃はめちゃめちゃ活発な子でした。学校から帰ってきて、宿題もせずにすぐ外に出て遊んでいましたから(笑)。生まれ育った街は、県庁所在地である熊本市の隣にあるとはいえ、本当に何もない“ザ・田舎”。だから家の横にある広場でサッカーをしたり、鬼ごっこや缶蹴りをして、のびのびと遊んでいました。ただ、家の近所に同級生が住んでいなかったこともあり、年上や年下の子と遊ぶことが多かったですね。もちろん弟(大/2015年にロアッソ熊本で現役引退)とも遊びましたが、年齢が4つ離れていたし、体格も全然違ったから頻度は少なかったと思います。

 「将来、プロサッカー選手になりたい」という夢を持つようになったのは、僕が小学2年生の時に開幕したJリーグがきっかけです。ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)の全盛期で、当時は頻繁にテレビで試合が放送されていたので、よくカズさん(三浦知良選手/横浜FC)や北澤(豪)さん、ラモス瑠偉さんら前線の華のある選手たちのプレーに注目していました。

写真=Jリーグ 「プロサッカー選手になる」という具体的な夢を持つきっかけになったJリーグ開幕。藤本少年は三浦知良や北澤豪といった華のあるプレーヤーを目で追っていた

 サッカーへの興味が強くなっていく中で、「チームに入ろう」と思ったのは小学3年生の時。でも、通っていた小学校の生徒数が少なく、チームがなかった。「どうしよう……」と思っていた時に、転校してきた子が「クラブチームというのがあるよ」と教えてくれた。その話を聞いて、熊本YMCAに加入したのが本格的なサッカー人生の始まりです。

 小学生時代はずっとFWやトップ下といった攻撃的なポジションでした。今では想像もつかないと思いますが、ドリブラーだったんです(笑)。パスをもらったらドリブルでガンガン仕掛けて、一人でシュートまでもっていくプレーを繰り返していました。当時の熊本YMCAはめちゃめちゃ強かった。全日本少年サッカー大会、学童オリンピック、九州ジュニアサッカー大会と、年に3回大きな大会があるんですが、5年生時には全日の熊本県予選で優勝し、6年生では連覇。学童オリンピックでも優勝しました。

 今でも覚えているのは、小学生時代の最後の大会となった全日。セレッソ大阪ジュニアと予選リーグで同組になったんです。何か運命的なものを感じますよね(笑)。お互いに2勝2敗で勝ったほうが次に進めるという最終節で対戦しましたが、0-2で負けました……。セレッソの前線にはハーフの選手がいて、彼にやられた記憶があります。だから、小学生時代の全国大会では予選リーグが最高成績でした。

 小学生の頃を振り返ると、本当にサッカーが楽しくて仕方がなかったので、グラフも「プラス100」あたりをキープ。ただ、すごく記憶に残っている出来事が一つあって。僕自身は4年生から上級生のチームに混ざってプレーしていたこともあってか、天狗になっていたというか、ちょっと勘違いしていたフシがあったんです。チームも熊本県内では強くて、ほとんど負けることがなかったので気が大きくなっていたのかもしれません。そんな中で6年生時に九州ジュニアサッカー大会の県大会準決勝で負け、その悔しさからチームやチームメートに対してすごく文句を言ってしまって……。それを見かねて、同級生が僕のことを一喝してくれたんです。そこで「調子に乗っていたんだ」と気づかされました。もし、彼が怒ってくれなかったら、ずっと天狗のままだったかもしれないので今でも感謝しています。

#02
上下関係の厳しさに驚いた中学時代
指導者に恵まれ、人としても成長を遂げる

 中学では、学校のサッカー部には所属せず、熊本YMCAのジュニアユースに上がりました。熊本県内にクラブチームがそれほど多くなかったこともありますが、何よりYMCAが好きだったから残ることにしたんです。

 中学進学後、まず最初に驚いたのは上下関係の厳しさ。小学生の頃はゆるかったというか、上級生のチームでもプレーしていたので、先輩とも仲良くさせてもらっていたんですが、中学生になったら言葉遣いや礼儀に対してものすごく厳しくなっていて……。「あんなに優しかったのに、この1年で何があったんだろう」とさえ思いました(苦笑)。

 サッカー面で驚くことはそれほどなかったですが、ポジションはボランチに変わりました。パスをさばいてチームのリズムを作るタイプでしたが、チームが割と自由なスタイルだったので、連係で崩すというよりも個の能力で戦っていた感じでしたね。だから戦術的な練習よりも、個人のテクニックを向上させる練習が多かったように思います。ゲーム形式の練習が中心で、常にボールにさわりながらトレーニングをしていた印象が強いです。

 ジュニアユースの練習は火・木・土・日の週4回。だからサッカー漬けというわけではなかったです。練習がない日は、よく友達の家に入り浸っていましたね。中学校から家まで遠かったので、帰るのが面倒くさくて(笑)。ゲームをしたり、漫画を読んだり、ごく普通に遊びも楽しんでいました。

 中学時代を思い返すと、すごく指導者に恵まれたと思います。自らお手本を披露して、どうプレーすればいいのかを分かりやすく伝えてくれる方でしたから。そのおかげで練習メニューがスッと頭の中に入ってきたので、もし今後自分が指導者になるとしたら、ああいうふうになりたいなと思います。

 アメとムチの使い分けもうまかったですよ。雰囲気がめちゃめちゃ怖かったので安易に話し掛けられる人ではなかったですが、不意に冗談を言って笑わせてくれることも多かった。それに礼儀だったり、自分の身の回りのことについても厳しく指導してくれたので、そこは今の自分に通ずるところがあると感じますし、中学時代に教えていただいて良かったなと思います。

写真提供=藤本康太 小中学生時代は熊本YMCAに所属。ただ、サッカー漬けの日々を送っていたわけではなく、普通の遊びも楽しんでいたという

#03
一度はサッカー部からの退部を決意……
とにかく濃すぎた高校生活

 中学卒業後は、熊本国府高校へ進学しました。熊本YMCAジュニアユース時代は決まった練習場がなく、いろいろなところを転々としていたんですが、その中の一つが熊本国府高校だったんです。そこで練習の様子を見てスカウトしていただき、特待生として入学しました。熊本YMCAジュニアユースの監督と、熊本国府高校の監督が同級生で元チームメートという間柄だったので話を通しやすかったのか、スムーズに決まりましたね。

 ご存知の方も多いと思いますが、熊本には大津高校という絶対的な強豪校があり、僕自身も青いユニフォームを着て全国大会に出ることを夢見ていました。でも、いざ入ろうと思ったら家から遠くて通うのが難しかった。実家は電車が通っていない地域だった上に、朝練が6時スタートでしたからね(苦笑)。かといって、寮に入るのは性格的に合わないと思っていたので、大津高校と同じくらい強い熊本国府高校への進学を決めたんです。大津高校ほどサッカーエリートが集まる学校ではなかったですが、熊本県内では常に上位に入っていました。

 当時の熊本国府高校は「練習が厳しい」と噂されていて、入学前に監督からも直接伝えられました。でも、なぜか僕は「イケるやろ!」と思っていたんです。でも……実際は全くついていけず、めちゃめちゃキツかった(苦笑)。走る練習を中心に、とにかくフィジカルメニューばかり。その厳しさから、入部当初は約30人いた同級生が10人ほど辞めていきました。

 僕の場合は学校に通うのもしんどくて、自宅から学校まで自転車で1時間、さらに学校から練習場までも自転車で1時間掛かっていたんです。つまり、家から練習場まで2時間の道のりを自転車で移動していて……。さすがに往復4時間はハード過ぎたので、熊本市内に車で通勤していた父に便乗させてもらっていました。ただ、今思うと本当に大変だったと思います。朝練は6時に始まり、授業が終わった後に夜10時くらいまで練習をしていたんですが、それに合わせて車で送迎してくれたわけですから。父にはすごく迷惑を掛けたと思うし、本当に感謝しています。

 「イケる」という甘い考えから、叩き落されて始まった高校生活ですが、1年生時から試合に出場でき、インターハイのメンバーにも選ばれました。当時のチームは、僕が入学する前の新人戦で大津高校を倒して優勝するくらい強かった。だから、インターハイでも優勝が目標だったのですが、準々決勝でPK戦の末に負けてしまったんです。しかも、PKを失敗したのは僕だけ……。3年生から「行けよ」と指名されて、「嫌だな」と思いながら臨んだら案の定、外してしまいました。中学時代よりも上下関係が厳しかったので、袋叩きにされるんじゃないかとビクビクしましたが、「俺たちが悪かったから、気にするな」と温かい言葉を掛けてもらいました。

 ポジションは1年生時こそボランチでしたが、2年生からはセンターバックにコンバートされました。サッカーを始めた頃はFWだったと考えると、どんどん後ろに下がっていった感じですね。一番楽しかったのは……やっぱりFW。自分から仕掛けたいタイプだったし、攻撃が好きでしたからね。逆に、受けに回るのが嫌だったので「センターバックをやれ」と言われた当初は、楽しくないなと(笑)。でも、選手は言われたポジションをやるしかないですからね。「何か楽しさを見いださないと」と思いながら練習や試合に取り組んでいたら、空中戦や一対一で競り勝った時に快感を感じられるようになり、少しずつセンターバックというポジションにハマっていきました。

 ただ、高校3年間で全国の舞台に立つことはできませんでした。入部当初からレギュラーとして試合に出場できましたが、最も勝ち進めたのが3年生時の県大会決勝。それまではベスト8くらいで負け続けていたんですが、最後の高校サッカー選手権大会で何とか決勝まで勝ち進めた。もちろん、相手は大津高校。でも、高校生活で初めての決勝だったため、全員がド緊張(笑)。ガッチガチになってしまい、0-2で負けました。さすがに泣きましたが、悔しさよりも「3年間、やり切ったな」という思いのほうが強かったですね。その時にはセレッソへの加入も決まっていたし、「次に向けて頑張ろう」と気持ちを切り替えられました。

写真=shutterstock 美しい自然が残る熊本県で育った藤本。しかし、電車が通っていない地域に住んでいたため、学校まで父の車で送り迎えしてもらいながら、サッカーの練習に明け暮れた

 高校生活を通じて、一番学んだなと思うのは、「力の抜き方」。とにかく練習がキツく、すべてのメニューを全力でこなしていたら体がもたないので、要領よくこなすことが身につきました。

 ただ、一度だけ、あまりにも理不尽な練習に耐えかねてサッカー部を辞めたことがあるんです。辞めたというか、監督に「辞めろ」と言われて退部状態になって……。発端は、ちょっとしたコミュニケーションミス。たまに監督が学校から練習場までバスで送迎してくれることがあったんですが、監督から「乗る人が揃ったら呼びに来い」と言われていたキャプテンがすっかり忘れて、報告に行かなかったんです。それで怒られてしまい、「お前ら、練習場まで走って行け!」と。でも、練習場までは最低でも2時間は掛かるし、帰りも走らされると分かっていたので、嫌気が差して、3年生7人くらいで「ボイコットしよう」と。そうしたら見事に退部状態になったんです。

 その後、話し合いの場が設けられ、監督から「サッカー部に戻って来たかったら学校と練習場を5往復しろ」と言われました。片道2時間掛かる道のりなので、20時間ですよ!? あまりに現実的じゃなかったから、行きは電車を使いました(笑)。とりあえず往復すれば良かったので、それでも大丈夫だったんです。

 一緒にボイコットした他の3年生が徐々に戻っていく中、最後まで「サッカー部を辞める」と言い続けたのが僕でした。その結果、両親とケンカになり、父に殴られ……。「そんなに嫌なら転校するか?」とまで言わせてしまった。片意地を張っていましたが、さすがに「親にそんなことを言わせたらアカン」と思い、監督に頭を下げてサッカー部に戻りました。

 振り返ってみると、とにかく濃い高校生活でしたね。サッカー部を退部状態になった時は、さすがにグラフも「プラス10」まで下がりましたが、厳しい環境の中でたくさんのことを学ばせてもらった3年間だったなと思います。

写真=宮原和也 「とにかく濃い高校生活を過ごした」と振り返る藤本。厳しい環境にもまれながら、心身ともに成長した3年間だった
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感謝の気持ちを忘れずに

写真=宮原和也 文=岡本 亮

桜の戦士たち一人ひとりにフォーカスし、そのサッカー人生の歩みを紐解いていく
ファンクラブ会報誌『TWELFTH』のウェブ限定コンテンツ「SAKURA BIOGRAPHY」。
第8回はセレッソ在籍15年、プロサッカー人生を桜一筋で過ごしてきた藤本康太が登場。
これまで歩んできた自身のサッカーキャリアについて、振り返ってもらった。
後編では、セレッソ愛を貫いたプロ選手としての道のりにスポットを当てる。

これまでのキャリアを振り返りながら、自身が描いたグラフ。マイナスの時期が一度しかないことから、充実したキャリアを歩んできたことがうかがえる

#04
セレッソに加入した2005年
プロ1年目にして激動のシーズンを過ごす

 セレッソ加入のきっかけは、熊本国府高校2年生時に呼ばれた高校選抜の選考会だったと思います。本来は全国大会に出場した優秀な選手だけを集める選考会なんですが、全国の舞台を知らない1、2年生を加えることになり、僕もたまたま呼ばれました。そこでセレッソのスカウトの方に声を掛けてもらい、キャンプに参加することになったんです。

 初めてのキャンプは……ついていくことに必死でしたね。高校生の僕からしたら異次元のレベル。スピードもフィジカルも数段違うので、練習メニューをこなすだけでヘトヘトになりました。さらに練習後は選手全員で夕食を食べるんですが、円卓のテーブルで大久保嘉人さん(ジュビロ磐田)と森島寛晃さんに挟まれ、目の前にはアキさん(西澤明訓)というすごい面々に囲まれてしまい……。「高校生をこんなところに放り込むなよ!」と思いましたね(苦笑)。でも、皆さんめちゃめちゃ優しかったです。

 その後、高校3年の10月頃に仮契約を結び、2005年に加入しました。迎えたプロ1年目は、いきなり激動のシーズンでしたね。シーズン序盤は出場機会がありませんでしたが、第18節ガンバ大阪戦でプロデビュー。緊張はしていませんでしたが、とにかくフワフワしていた記憶があります。1-3で負けていた状況だったし、自分にできることは限られていたので、とにかく与えられた役割をしっかりこなそうと思ってピッチに入りました。

 初スタメンのチャンスが訪れたのは第31節川崎フロンターレ戦。ファビーニョが出場停止になったことで、出番が回ってきたんです。下村東美さんとダブルボランチを組んで出場しましたが、センターバックの前田和哉さんが開始24分でケガをしてしまい、宮原裕司さんと交代。僕がセンターバックへ下がることになりました。実は僕、セレッソにはボランチとして加入したものの、高校2年からセンターバックしかやってこなかったので、ボランチというポジションが自分の中でハマっていなかったんです。だから、一番ボールを失ってはいけないポジションなのに、全くと言っていいほどボールが足につかなくて(苦笑)。でも、センターバックに下がったことで、ようやく普段のプレーができるようになったことを覚えています。

 そこからはスタメンで出続けました。ただ、第33節横浜F・マリノス戦で引き分けてしまい、「優勝は厳しいかも」と思っていたところ、G大阪が負けたことで首位に躍り出たんです。2位との勝点差は「1」。最終節のFC東京戦に勝利すれば初優勝が決まる状況になり、みんなで「これはイケるぞ!」と。そこからの1週間は全員がものすごくピリピリしていました。クラブハウスに来るメディアの数も多く、選手全員がどこか緊張していたように思います。

 「勝てば優勝」という状況での最終節……。きっと皆さんも覚えていると思いますが、アキさんが2ゴールを決め、試合終盤まで2-1とリードしていたんですが、89分に失点してしまい……。決められた瞬間は、とにかく「ヤバい」と。他会場の状況は分からなかったけど、みんなが膝に手を当ててガックリしていた記憶があります。

 サポーターの方から「これまで印象に残っている試合は?」と聞かれることがあるんですが、このFC東京戦と答えています。というのも、森島さんやアキさんって、普段は全く厳しい面を見せないんですが、この試合では普段より数百倍も真剣な眼差しで戦っていた。その姿を見て「プロサッカー選手としての気概」をすごく感じたし、同点のまま試合が終わって2人の表情を見た時に、改めて「この試合に懸けていたんだな」と痛感しました。

 その時の思いが、僕がセレッソに居続ける原点になったように感じます。「これだけ悔しい思いをしたんだから、絶対にセレッソでタイトルを獲りたい。チーム全員を笑顔にしたい」と強く思うきっかけになりました。

セレッソ一筋を貫く原点になったと振り返る05年の“長居の悲劇”。惜しくも初優勝には手が届かなかったが、藤本はルーキーながら大一番でフル出場を果たした

#05
人生で初めてチームキャプテンに
偉大な先輩を手本に、「自分らしく」チームをまとめる

 優勝争いを演じた翌年、チームは一転して残留を争うことになりました。僕自身は開幕直後こそ出られなかったものの、徐々に出場機会をつかみ始め、第19節京都パープルサンガ(現京都サンガF.C.)戦でプロ初ゴール。アキさんのクロスをダイビングヘッドのような形で決めました。「決めてくれよ」というメッセージ付きのクロスだった上に、アキさんにアシストをしてもらえたことがすごくうれしかった。このゴールをきっかけに、プロでもやっていける自信が芽生えました。それまでは周りの選手に助けられっぱなしでしたが、ようやく目に見える結果を出せて自信が湧いてきたんだと思います。

 ただ、チームはJ2へ降格することに。1年目に優勝争い、2年目に残留争いという落差の大きい2年間を過ごしましたが、プロになったばかりでどちらも初めての経験だったから、「プロサッカー選手はこれが普通なのかな」と。ただ、降格が決まった時、みんなを励ますために明るく振舞う選手もいて、その姿には言葉にできない感情がありました。

 J2で戦うことになった2007年は、大阪長居スタジアム(現ヤンマースタジアム長居)改修のため、長居第2陸上競技場(現ヤンマーフィールド長居)がメインで使われました。だから、観客数もそこまで多く入らなかった記憶があります。また、チームはJ2降格を受けて若手主体に切り替えることを目指しましたが、なかなかうまくいかず……。それでもシーズン途中に監督がレヴィー クルピに代わったあたりから少しずつ上向いたように思います。自信を持ってプレーする若い選手が増えましたからね。

 僕自身は、この年から背番号が「4」に変わりました。ただ、これは自分の希望というわけではなく、オフが明けてロッカーに行ったら4番になっていたんです(笑)。とはいえ、背番号が一ケタになったことで自覚を持つようになったとは思いますね。それまでの2シーズンのように甘えてはいられない。チームの期待に応えるために、そして4番に恥じないプレーをしないといけない、と決意を新たにしました。

 結果的にJ2で3シーズン過ごしましたが、2009年にJ2で2位に入りJ1復帰を果たせました。09年はチームとして年間100得点を決めたんですが、今振り返っても、攻撃陣の破壊力はすごかったですね。前線にボールを預けさえすれば、勝ててしまうような感じでしたから。カイオ、(香川)真司(レアル・サラゴサ)、(乾)貴士(SDエイバル)がとにかくすごくて。1失点以内に抑えられたら絶対に勝てる自信がありましたね。

4年ぶりのJ1復帰を決めた2009年。年間100得点を奪った攻撃陣を軸に、圧倒的な強さでJ1への切符をつかんだ
写真=Jリーグ 12年からは人生で初のキャプテンに。個性の強い選手一人ひとりを尊重し、チームをまとめた

 4年ぶりにJ1の舞台に戻った2010年は、いきなり3位に。初めてACL(AFCチャンピオンズリーグ)の出場権も獲得しました。真司はシーズン途中で移籍したけど、アキ(家長昭博/川崎フロンターレ)やキヨ(清武弘嗣)、貴士と前線にハイレベルな選手がいましたが、何よりも守備の安定感が素晴らしかった。その中でもモニさん(茂庭照幸/FCマルヤス岡崎)と上本大海さんの存在が大きかったですね。一緒にプレーしていて「すご過ぎる!」って感じていたくらいです。

 特にスピードと対人の強さは、それまでに経験したことがないレベルで、大きな衝撃を受けました。2人のプレーを見て「守備は身体能力だけではできないんだ」、「頭を使わないといけない」と思わされたことを覚えています。だからこそ、何を考えながらラインを上下させているのか、どうやって動かしているのかを2人から学ばさせてもらいました。それが今でも僕のディフェンスのベースになっています。

 翌年はチームにとっても、僕にとっても初のACLに出場しました。結果的に、大阪ダービーに勝利してベスト8まで進出することができましたが、それまでの海外の試合は雰囲気が全く違いました。僕自身はグループステージの6試合に出場したんですが、暑い国での試合もあったし、ピッチのコンディションもバラバラで……適応するのに苦労したことを鮮明に覚えています。でも、いい経験になりました。

 2012年からはキャプテンを任されました。ただ、最初に打診された時は断ったんです。それまでキャプテンなんてやったことがなかったし、当時はそこまで試合に出ていたわけでもなかったですから。それに個人的にはスタメンじゃない選手がキャプテンというのは「ちょっと違うかな」と。キャプテンだった大海さんが移籍し、「後は任せたぞ」という感じで託してくれたという話も聞きましたが、「キャプテンだから試合に出ている」と思われるのは嫌だったし、実力で定位置をつかみたかったから断ったんです。でも、「生え抜きの選手がやるのが一番いいから」と説得され、「チームのためになるのなら」と思い引き受けることにしました。

 僕の中での理想のキャプテン像は、森島さんと羽田(憲司)さん。森島さんは背中で引っ張るタイプで、羽田さんは積極的に声を掛ける「ザ・キャプテン」タイプ。2人のいいところを掛け合わせたキャプテンを目指そうと思って試行錯誤しましたが、僕には合わなくて疲れてしまった(苦笑)。だから、翌年も引き続きキャプテンを務めましたが、いい意味で「適当にやろう」と開き直りました。みんなプロとして自覚を持っているんだから、必要以上にやらなくていいもいいかなと。そう考えられるようになって少し肩の荷が下りました。

写真=Jリーグ 12年からは人生で初のキャプテンに。個性の強い選手一人ひとりを尊重し、チームをまとめた

#06
桜一筋で駆け抜けた15年間
礎になったのは「感謝の気持ち」

 キャプテンとして戦い続けた2年間を経て、迎えた2014年は本当に難しいシーズンでした。監督がシーズン中に2度も交代して、サッカーもコロコロ変わってしまいましたからね。もともとパスサッカーをやっていたのに、いきなりハードワークのサッカーを求められても、走り切るベースがないから厳しくて……。それでも我慢強くできたら良かったんですが、結果が伴わないと、どうしても疑心暗鬼になってしまう。だからチームとしての思いを統一できないまま……最終的に降格という結果につながってしまいました。

 再びJ2に落ちた2015年、ケガの影響でプロサッカー人生で初めてリーグ戦で1試合も出場できないままシーズンが終わりました。ここでグラフも「-100」まで下がります。1年間サッカーができないことが分かった時は、さすがに落ち込みましたが、トレーナーさんが気持ちが切れないように気を遣ってくれたし、周りの選手も声を掛けてくれて、何とかモチベーションを保つことができました。

 長期にわたるリハビリを経て、ようやく復帰できたのは2016年の第17節V・ファーレン長崎戦。今だから言えますが、復帰はしたものの完治していない部分があったんです。それでも大熊(清)さんが「お前が必要だ」と言い続けてくれて、「頼むぞ」と声を掛けてくれたので、「チームのためにも、自分のためにも、やり切る」という強い決意で試合に臨んだことを覚えています。

 この年は結果的に4位でシーズンを終え、J1昇格プレーオフを戦うことに。チームとしては前年も戦っていましたが、僕自身は初めて経験する舞台。今までに味わったことのない独特な雰囲気を感じました。でも、準決勝、決勝と2試合ともホームで戦えたことは本当に心強かった。もし、決勝で松本山雅FCと対戦することになっていたら、アウェイ戦だったので雰囲気も含めて「難しい戦いになるな」と思っていたので、ラッキーでしたね。

 準決勝で京都を下し、雨中決戦となった決勝のファジアーノ岡山戦。1点を守り抜いてJ1復帰を決めることができましたが、うれしい思い以上にホッとしたという感覚が大きかった。「ようやく居るべき場所に帰れるな」と。「セレッソというクラブは絶対にJ1へ上がらないといけない」とずっと思っていたので、その使命をようやく果たせました。

 3度目のJ1帰還となった2017年。リーグ戦での出場機会は3試合でしたが、ルヴァンカップと天皇杯でチャンスをもらいました。特にルヴァンカップではグループステージから準決勝まで、リーグ戦で出場機会が少ない選手たちが中心となって戦いましたが、当時は“誰が出てもブレない強さ”があったように思います。「1点取れば、勝ち切れる」。それがルヴァン組の勝ち方だったし、泥臭いプレーで勝ち進んでいく中で、そういう自信がチーム全体に広がっていったように思います。

 準決勝で宿敵・G大阪を倒し、辿り着いた決勝の相手は川崎フロンターレ。僕自身はスタンドから観ていましたが、開始早々の1分に先制して、終了間際にダメ押しゴール。ようやく初優勝を達成できて、めちゃめちゃうれしかったです。自然と涙が出ていましたからね。先ほど話したように、05年にリーグ優勝を逃した時の森島さんとアキさんの姿を見て、「絶対にタイトルを獲らないといけない」と思っていたから……胸にこみ上げてくるものがありました。

 さらに、このシーズンは天皇杯でも優勝して"2冠”を達成。グラフはもちろん、一気に「+100」まで上がりました(笑)。

 ただ、一つ悔いが残っていることがあって……。ルヴァンカップ決勝の先制点と試合終了のホイッスルの瞬間は、埼玉スタジアム2002で迷子になってしまい、観ることができなかったんです(苦笑)。特に、優勝の瞬間は絶対にピッチの近くで迎えたかったから、ソウザが2点目を決めたのを観て「絶対に勝った!」と確信し、下に降りようと思ったんですが、途中で警備員に止められてしまって。以前、浦和レッズに所属していたクニくん(関口訓充/ベガルタ仙台)も一緒にいたので、「道、知ってるやろ!」とツッコんだものの、結局分からず。VIPエリアを突っ切ってようやく辿り着いたと思ったら、すでに試合は終わっていました(苦笑)。まあ、試合終了のホイッスルを聞いて喜ぶ瞬間には立ち会えなかったけど、その後でみんなと喜べたから良いんですけどね。

藤本にとっても、チームにとっても初めてのタイトル獲得となった17年のルヴァンカップ。優勝決定の瞬間には立ち会えなかったものの、最高の歓喜を味わった

 これまで15年間、セレッソで過ごしてきましたが、もう”自分の家”みたいな感覚になっています。これまで「外に出てみたい」と思ったことが一度もないわけではないけど、結局はここにいてしまうというか……セレッソにいるんですよね。

 9歳でサッカーを始めて、今年で33歳。24年間サッカーをしてきましたが、いつも感謝の気持ちを持ちながらやってきました。周りの人にしろ、チームメイトにしろ、支えてくれる人に対して「ありがとう」という気持ちを持ち続けることが何より大事。毎日の練習だって、スタッフの方々が準備をしてくれるおかげ。スタジアムでも、多くの人が僕たちのために走り回ってくれています。そこにサポーターという大きな支えがあって、自分たちはいい状態でピッチに立てる。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

 僕の原点は、優勝を逃した05年のリーグ最終節。森島さんとアキさんの悔しそうな顔は忘れられません。その時に「セレッソでタイトルを獲る」と誓い、ルヴァンカップと天皇杯では優勝できましたが、リーグタイトルにはまだ手が届いていません。それを達成できなかったのは残念だけど、プロキャリアの15年間すべてをセレッソで過ごさせてもらったことは本当に幸せでした。本当に感謝しかありません。

 これからもセレッソがもっともっと大きく成長していくことを願っていますし、いつかリーグタイトルを獲ってほしい。応援しています。

写真=宮原和也 常に「感謝の気持ち」を持ってサッカーに取り組んでいたという藤本。インタビュー中にもチームメート、スタッフ、サポーターをはじめ、すべての人に対して何度も感謝の言葉を口にしていた
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取材協力店
CAFE BEATO(カフェ・ベアート)

住所:大阪府大阪市福島区福島8-1-3
電話:050-5593-8854
営業時間:11:30~24:00
定休日:火曜日
HP:https://www.instagram.com/cafe.beato/

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