TWELFTH
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“自分らしさ”を貫いて

写真=吉田孝光 文=小田尚史

桜の戦士たち一人ひとりにフォーカスし、そのサッカー人生の歩みを紐解いていく
ファンクラブ会報誌『TWELFTH』のウェブ限定コンテンツ「SAKURA BIOGRAPHY」。
第7回は、プロ野球界のレジェンドである高木豊氏を父に持ち、3兄弟全員がプロサッカー選手という
アスリート一家の長男で、スピードやドリブルを武器に前線で存在感を示す高木俊幸選手が登場。
これまで歩んできた自身のサッカーキャリアについて、振り返ってもらった。
前編では、サッカーを本格的に始めたきっかけや学生時代に焦点を当てる。

自身のサッカー人生を振り返りながら、高木選手自身が作り上げた充実度を示す折れ線グラフ。マイナスの時期がほとんどないことからも、充実したキャリアを送ってきたことが窺える

#01
一度は野球に転向するも弟の姿を見て再びサッカーに
小学生時代からサッカー漬けの日々を送る

 サッカーと出会ったのは幼稚園の頃。両親も何かしらスポーツをさせたかったらしく、横浜のサッカーチーム、あざみ野FCに入りました。ただ、実は小学校に入って、一度サッカーを辞めているんです。小学1年生時は野球をやっていました。

 「サッカーをやりたい!」と、しっかり意思を持って本格的に始めたのは小学2年生から。きっかけは、次男(善朗/アルビレックス新潟)の存在です。次男は幼稚園からサッカーを始めて、小学校に入ってからも継続してやっていました。そんな次男のプレーしている姿を見て、僕自身も再びサッカーを始めたんです。

 野球も面白くなかったわけではないんですが、小学1年生ではなかなか試合に出られない。公式戦の時はベンチか、ベンチ横の地べたに座って見ていました。やっぱり練習ばかりでは面白みが分からないですし、それに野球は練習時間も午前、午後と長いので集中力がもたなかった(笑)。そういった中で次男がサッカーをする姿を見て、「サッカーに戻ろう」って思いました。

 父は「何でも好きなことを一生懸命やって、上を目指してくれたら」と言ってくれていたので、特に「野球をしろ」と言われたことはありません。野球をやっていた時も、父に言われて、というわけではなかったですしね。まあでも、小さい頃の遊びと言えば、どちらかと言えば野球でした。次男はずっとサッカーボールで遊んでいたらしいですが、僕はよく父とキャッチボールもやっていました。ただ、小さい頃の遊びでも父は厳しかったですね。ついつい熱が入ってしまい、遊びだったはずが、そのうち本当の練習になってしまう感じで。「そんなこともできないのか!」みたいなことを言われて、半ベソをかいてやっていたらしいです(苦笑)。

写真=吉田孝光 小学生時代を振り返る中で「一度サッカーを辞めている」と明かしてくれた高木。それでもサッカーに打ち込む次男の姿や、好きな道に進むことを促してくれた父親の存在もあって、再びサッカーへの熱が高まったという

 野球をやっていた小学1年生の頃は、父が特別コーチをすることもあったんです。でも、その時は僕にだけやたら厳しくて。後々、「(息子に優しくすると)周りに示しがつかないから、余計に厳しくしていた」と言われましたが、当時は正直「理不尽だな」と思っていましたね(苦笑)。

 そんな父は、僕がサッカーに戻ってからもめちゃくちゃ厳しかった。技術や戦術よりも、メンタル面についてよく言われました。ちょっとでも消極的なプレーをしたら、特に厳しかったです。試合があった日は、家に帰ったら母が撮ってくれたビデオを見ながら、「何でこうしないんだ」、「見てみろ。めっちゃ弱気だぞ」とか指摘されて。「お前の良さは何だ?」と。常にそんな感じでしたよ。チームの他にもう一人、監督がいた感じです(苦笑)。

 だから父が観に来た試合では、監督よりも父のほうが気になって、ワンプレーが終わるたびに父の顔色を窺っていました。しかも、父兄って大体みんなで固まって応援するじゃないですか。でも、父はみんなから少し離れたところに椅子を置いて、一人で観るんですよ。だから余計に目立つ(笑)。試合を観に来ている時は、父がどの場所にいるか、いつも試合前に確認していました。

 あざみ野FCは地元・横浜では有名で、全国的にも知っている人がいるような強いチームでした。宿敵は横浜F・マリノス。全国大会に出場するためには神奈川県予選で横浜FMを倒さないといけない。そういう立ち位置でした。といっても、僕自身は加入当初は本当に下手くそで……(笑)。実は当時、今は湘南ベルマーレでプレーしている山根視来選手のお父さんにサッカーを教わっていたんです。僕は山根選手のお兄さんと同じ年で、あざみ野FCでも一緒だったんですが、かなり近所に住んでいたんですよ。それもあって平日は近くの公園で山根兄弟と一緒に練習していました。チームの活動は土日しかなかったですしね。だから、サッカーの基礎は山根選手のお父さんから学びました。

 そのうち(平日もしっかり練習したくなって)あざみ野FCとは別に、平日に活動しているサッカースクールにも入りました。でも、入ってみたら、そのスクールはあざみ野FCのメンバーばかりで(笑)。たぶん、みんなももっとサッカーをやりたかったんでしょうね。そんな感じで、小学生時代は1週間ずっとサッカーばかりしていました。

#02
あざみ野FCの先輩は現チームメートのあの選手
小学5年生時にはサッカー人生を変える衝撃の出会いが

 最初は下手くそだった僕ですが、プレーの感覚をつかむのは結構早かったと思います。最初はGKをやったりもしましたが、小学2年生の終わり頃からはFWとしてプレーするようになり、得点も取れるようになった。あざみ野FCは基本的に学年別のチームで活動していたこともあって、同学年の試合にはすぐに出られるようにもなりました。

 飛び級になったのは小学5年生の時。1学年上の6年生チームの練習に参加していました。改めて振り返ってみても、小学生時代が一番ボールを蹴っていたと思います。父に一番怒られたのも小学生時代ですし、一番泣いたり笑ったりしていた。それくらい父もサッカーに一生懸命、向き合ってくれました。だから、小学生時代はグラフもずっと「+90」をキープ。とても充実していました。ちなみに、あざみ野FCの監督やコーチから厳しく指導された記憶はあまりないです。父が散々言うから、気を遣ってくれていたのかもしれませんね(笑)。

 ちなみに今、セレッソ大阪でチームメートの(水沼)宏太くんは、あざみ野FCの2学年先輩。小学4年生の時、たまに6年生チームの練習に混ぜてもらっていたのですが、宏太くんの年代はすごく強くて、横浜FMにも普通に勝ってしまうくらいレベルが高かった。だから、4年生当時の僕としては遊んでもらっているような感じで、「この人たち、すげぇな!」という感覚でした。宏太くんの同級生には、名古屋グランパスの金井貢史選手もいましたよ。

 当時の印象的なエピソードを挙げるなら、夏合宿ですね。あざみ野FCは年1回、夏合宿を行うのですが、小学2年生から6年生まで縦割りで班を作って、3泊くらい一緒に生活をするんです。6年生が班長として全体をまとめるのですが、僕は4年生の時に水沼班だったんです(笑)。班長の宏太くんと一緒に生活し、もちろん試合もしました。宏太くんは当時から率先して声を出していましたね。今と同じです(笑)。

 あと、もう一つ当時の思い出として残っているのは、(水沼)貴史さんが立ち上げた大会「ガチアーズカップ」。全国のハイレベルなチームを集めた大会で、僕が小学5年生の時から開催されるようになりました。そこで埼玉県のチーム(江南南サッカー少年団)にいた原口元気選手(ハノーファー96)の存在を初めて知り、「こんなにうまいヤツがいるんだ!」と刺激をもらったことは鮮明に覚えていますし、僕のサッカー人生を変えたと言っても過言ではありません。

 正直、それまでは「同年代に自分よりすごい選手はいないんじゃないか」と思うくらい点を取っていたんです。でも、ガチアーズカップの決勝で原口選手のチームと対戦することになると、試合前にコーチが僕のところに来て「相手の9番、お前よりうまいぞ」と言ってきて。僕自身は「そんなヤツ、いないだろ」と思っていたのですが、キックオフ直後に原口選手がいきなりドリブルで仕掛けてきて、全員抜かれてゴールを決められたんです。それで「コイツはヤバイ!」と(苦笑)。結局、原口選手に5点くらい決められて負けました。ホントに衝撃でしたよ。その強烈な印象がずっと残っていて、僕にとって原口選手はライバルというか、ずっと追いかける存在になったんです。

写真右=getty images あざみ野FC時代にはたくさんの出会いにも恵まれた。現チームメートの水沼(写真左)には先輩として、班長として可愛がってもらい、日本代表MF原口(写真右)とは公式戦で対戦してサッカー人生を変えるほどの衝撃を受けた

#03
東京Vアカデミーで一度は“壁”に直面するも
父の一喝で目を覚まし、高校3年時にJデビューを果たす

 中学では、東京ヴェルディのジュニアユースに加入したのですが、選択肢としては横浜FMのジュニアユースもありました。というのも、先ほど話したように、あざみ野FCは土日しか活動がなく、小学5年生からはセレクションを受けて横浜FMのスペシャルスクールにも通っていたんです。だから、横浜FMからも誘われていました。

 でも、あざみ野FCに東京Vアカデミー出身のコーチがいて、小学6年生時にそのコーチの縁で東京Vジュニアの練習に参加させてもらったんです。それもあって中学進学前にはどちらに行くか悩みましたが、最終的には東京Vを選びました。理由としては、東京Vのサッカーが好きだったこともありますし、コーチの言葉を聞いても、個性を尊重してくれるチームだと感じたから。一方の横浜FMは、あざみのFC時代に対戦した印象としても組織的なサッカーをするチームで、小学生年代から戦術面も重視していました。僕はどちらかと言えば、個で勝負するスタイルだったので、「東京Vのほうが合っているかな」と感じて加入を決めたんです。

 実際に加入してからも、そのイメージどおりでした。一対一の練習が多かったり、技術的な部分にこだわっていましたから。ポジションは、最初からFW。当時は、ちょうど森本貴幸選手(アビスパ福岡)が中学3年生でプロになった頃で、僕は入れ替わりだったんですが、コーチたちは「中学3年生でプロになるためには……」という感じで、森本選手が一つの基準になっていましたね。

 だから森本選手が中学時代に習得した動きをたくさん教えてもらいましたし、無回転シュートも習って、みんなで壁に向かって蹴って練習していました。当時は、一学年上に和田拓也選手(横浜FM)がいて、同学年にはジュビロ磐田の高橋祥平選手もいました。祥平とは飛び級になるタイミングも同じで、ずっと一緒にプレーしていたんです。

 ユースに上がる頃には、具体的にプロでのプレーを意識するようになりました。そして高校3年時にはトップチームのキャンプに参加させてもらい、2種登録選手にもなれた。シーズン終盤にはJ2リーグ戦にも出ましたが、当時は監督が代わって、ユースの監督がそのままトップチームの監督に就任したので(ユース時代に指導していた)、そのおかげもあって僕も起用してもらえたのかなと思います。

写真=Jリーグ 「うまくなれた実感を持てた6年間だった」と語る東京Vアカデミー時代。ジュニアユースでは初めての壁にぶつかったものの見事に克服し、09年の高校3年時には2種登録選手としてJ2第45節水戸戦でトップチームデビューを飾った

 結果的には高校3年生でプロの舞台に立つことができましたが、サッカーを本格的に始めた小学生の時からプロを目指していました。父ともそういう約束というか、「やるからには一番を目指さないといけない」と言われていて、「プロになることがゴールではない」という感じで育てられました。だから「プロになるために」ではなく、「プロで活躍するために」を基準に、日頃からいろいろと言われていたんです。

 もちろん壁もありました。中学1年時に飛び級で2年生チームに入ったのですが、同じ立場の選手が何人もいた中で、僕だけなかなか結果を出せなくて。大会でも全く活躍できず……「サッカーをやめようかな」と思って、父にも話しました。(少しヤケになって)「野球をやろうかな」みたいに思っていたんですが、数日経って父にもう一度その話をすると、「そんな気持ちでやるヤツは、何やってもダメだ。そんな気持ちで野球をやっても、プロになんかなれない」と一喝されて目が覚め、真剣にサッカーに取り組むようになれました。

 ちなみに、高校卒業時に進路を選ぶ時、父は大学を推していました。父自身も大学に行っているので、大学の良さを知っていたのだと思います。「人生をトータルで考えると、大学に行ったほうがいい」とアドバイスもしてくれましたが、僕自身は「少しでも早くプロのピッチに立ちたい」という気持ちが強かったので、プロになることを決断しました。

 弟たちについても少し話すと、お互いにライバルという感じではなかったと思います。プレースタイルも違いましたから。ただ、一つ年下の次男は、僕が中学2年生時に東京Vジュニアユースに入ってきて、練習で相手チームにいることも結構あった。そこで一対一になると、やたら激しくぶつかっていましたね(笑)。もはや「サッカーじゃないんじゃないか」というぐらい削り合っていました。

 改めて東京Vアカデミー時代を総括すると、本当にイメージしていたとおりのクラブで、たくさんの刺激を受けることができました。それに、僕自身もうまくなれた実感を持てた6年間でもありました。そういう意味でも、東京Vを選んで良かったなと思います。

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“自分らしさ”を貫いて

写真=吉田孝光 文=小田尚史

(リード)
桜の戦士たち一人ひとりにフォーカスし、そのサッカー人生の歩みを紐解いていく
ファンクラブ会報誌『TWELFTH』のウェブ限定コンテンツ「SAKURA BIOGRAPHY」。
第7回は、プロ野球界のレジェンドである高木豊氏を父に持ち、3兄弟全員がプロサッカー選手という
アスリート一家の長男で、スピードやドリブルを武器に前線で存在感を示す高木俊幸選手が登場。
これまで歩んできた自身のサッカーキャリアについて、振り返ってもらった。
後編は、常にさらに上を目指して4クラブを渡り歩きながら成長を続けてきたプロでの足跡を辿る。

高木選手がこれまでのキャリアを振り返りながら描いた心の充実度を示すバイオグラフ。プロの舞台では何度か大きな浮き沈みもあるが、必ず這い上がる力強さを見せている

#04
アカデミー時代を過ごした東京Vでプロ契約を結ぶも
より高いレベルを目指して1年で移籍を決断

 2010年にプロ契約を結び、東京ヴェルディで迎えたプロ1年目はJ2リーグ戦で25試合に出場しました。ただ、途中出場が多く、A契約になるのは次男(善朗/アルビレックス新潟)のほうが早かったですね。その次男とは一緒に出場する試合も多く、3試合で2人揃ってゴールを決めることもできました。

 やっぱりプロ1年目は印象深いです。最初は何もできず、「こんなに通用しないのか……」と感じた時期もあって。兄弟揃って全然ダメで、父から「お前たち、そんなんだったら大学に行けよ!」と喝を入れられました(苦笑)。当時の川勝良一監督には、辛抱強く使ってもらったと思います。10年は最後までJ1昇格が狙える位置にいた中で、緊迫した試合でも起用してもらいました。とても濃いシーズンでしたが、調子が上がってきた終盤戦にケガをしてしまい、そのままシーズンが終わってしまったのは悔しかったです。

 プロ初ゴールは、自分でPKを獲得して決めた(J2第8節)ヴァンフォーレ甲府戦ですが、シーズンを通じて最も印象に残っているのは2得点を決めた(J2第28節)ギラヴァンツ北九州戦。1点目は流れの中から、2点目は無回転FKで決めました。当時、居残りで無回転シュートをかなり練習していたので、ゴールを決められてうれしかったことを覚えています。

 シーズン終盤には僕と次男で縦関係を組み、1トップとトップ下を任されて、自由にプレーさせてもらいました。後ろにいる先輩たちがレベルの高い選手ばかりだったので、先輩たちに伸び伸びやらせてもらっていたんです。特に印象深いのは土屋征夫さん(東京23FC)。とにかく存在感がすごかった。普段は面白い人ですが、試合になるとすごく熱い。身体能力も高く、誰よりも球際に強く行く。ベテランでしたが、体のキレもすごくて、戦う姿勢でチームを引っ張ってくれていました。

写真=Jリーグ アカデミー時代を過ごした東京Vでプロ契約を結び、1年目からリーグ戦25試合に出場。シーズン序盤こそプロのレベルに戸惑ったが、徐々に頭角を現すと、弟・善朗(写真左)とともに前線で存在感を示し、兄弟アベックゴールを3度も記録した

 プロ2年目を前に、清水エスパルスへの移籍を決断しました。オファーをいただいて即決でしたね。もちろん東京VでJ1昇格を目指す選択肢もありましたが、プロは1年1年が勝負。より高いレベルを求めていたので、J1でプレーすることを選びました。父にも相談しましたが、相談する前から自分の意思は固かったですし、父にも「当然だ」と言ってもらいました。

 初めての移籍だったので、最初はめちゃくちゃ緊張しました(苦笑)。実家から離れるのも初めてだったし、知らない環境に飛び込み、新しく人間関係を築くことがかなりプレッシャーで。当時は知っている選手も少なく、ほぼ誰とも面識がない状態……。そんな中、伊藤翔くん(鹿島アントラーズ)や小野伸二さん(北海道コンサドーレ札幌)に食事に連れていってもらい、面倒を見てもらいました。伸二さんのことは、みんな「神様」と言っていましたね(笑)。とにかく優しくて、みんな拝んでいました(笑)。プレー面でも、後ろに目がついているようなすごいパスが出てきます。「何でそんなプレーができるんですか!?」というくらい、周りがよく見えていました。環境が大きく変わる移籍は、最初こそ不安でしたが、いろいろな先輩に可愛がってもらって自然とチームに馴染むことができました。

 プレー面でも、割とすぐにフィットできたと思います。当時の清水は、前線にウイングを置くシステムを採用していて、僕としてはプレーしやすい環境だったのが大きかったですね。3トップの左サイドが僕のポジションで、サイドに張ってボールを受けて、そこからドリブルを仕掛けていくプレースタイルでした。周りの先輩たちも僕のスタイルを理解してくれて、「勝負してこい!」というパスをくれたので、やりがいもありました。

 逆サイドの右ウイングは、大前元紀選手(大宮アルディージャ)。2人で自由にプレーさせてもらっていたと思います。1トップは、加入当初は高原直泰(沖縄SV)さんが務めていて、その後は外国籍選手になることも多かったですね。高原さんは、口であれこれ言うタイプではなく、姿勢で示してくれる頼もしい先輩でした。

 清水での1年目を振り返ると、前年の主力選手が半分くらい移籍して、監督も代わったので、加入するには良いタイミングでした。おかげでスムーズにチームにフィットできましたから。翌年以降もコンスタントに出場できましたが、清水時代で一番印象に残っているのはリーグ戦で9得点を決めた加入2年目。ゴールを決める感覚を覚えて、サッカー選手として飛躍の年になりました。ただ、もう1点、やっぱりシーズン10得点にしたかった。二桁得点は、まだキャリアで実現できていないので、今でも目標の一つです。

 清水では初めてのJ1挑戦になりましたが、毎シーズン試合に出ることができ、自分自身のプレースタイルを確立できた4年間になったと思います。キャリアの中で一番ゴールも決めているし、すごくギラギラしていた時期でした。当時は、とにかく結果を出すことしか考えていなかったし、ひたすら結果だけを追い求めてプレーしていたように思います。そういった中で当時の指揮官、アフシン・ゴトビ監督とは何度かぶつかることもありましたが、信頼して起用してくれたので、すごく感謝しています。

 あと清水と言えば、何よりもホームスタジアム(IAIスタジアム日本平)の雰囲気が最高でした。アウェイになった今でも、あのスタジアムに行くと、思わずワクワクしてしまうくらいです。

写真=Jリーグ 4シーズン在籍した清水では左ウイングを主戦場として、常に主力として活躍。「一番印象に残っている」という12年にはキャリア最多のリーグ戦9得点を挙げるなど、選手として大きく飛躍を遂げた

#05
2度目の移籍は「憧れのような気持ちもあった」浦和へ
常に刺激的な日々を過ごし、濃密な経験を積み重ねる

写真=Jリーグ 浦和では代表クラスのプレーヤーが揃う分厚い選手層の前に出場機会こそ限られたが、刺激に溢れた日々の中で得られたモノは大きく、「選手としての幅が広がった」という

 清水で4年間プレーした後、15年には浦和レッズへ移籍しました。この時も清水移籍と同様、即決に近かったですね。まだ清水でもやれることはありましたが、当時の浦和は代表クラスの選手ばかりで、憧れのような気持ちもあり、さらなる刺激が欲しくて移籍を決めました。

 望んでいたとおり、浦和での3年間は本当に刺激的でした。最初は「あの浦和でプレーするんだ」と構える部分もありましたが、加入早々に槙野智章選手が面倒を見てくれて。浦和で新加入選手を最初に受け入れるのは槙野くんの役割らしく、僕のことも面白がって、イジってくれました(笑)。そんな槙野くんをきっかけに、チームにも自然と溶け込めました。加入前は「ピリピリしているのかな?」とイメージしていたんですが、選手同士の仲も良く、馴染みやすかったです。

 ただ、その一方で「試合に出ることがこんなにも大変なんだ」と思い知らされた移籍でもありました。清水時代はコンスタントに出場していたので「試合に出ることが当たり前」とまでは言いませんが、「試合に出て、いかに結果を残すか」に力を注いでいました。でも、浦和ではまず「試合に出る」ところからのスタート。選手一人ひとりのレベルも高かったし、層の厚さを感じました。

 加入1年目の15年はチームとして開幕から無敗が続いたんですが、僕がスタメン出場した試合(2ndステージ第3節サンフレッチェ広島戦)で初めて負けてしまったんです(苦笑)。しかも自分で獲得したPKを蹴って、それを外して逆転負け……。すごく責任を感じました。ただ、このシーズンの浦和は本当に強かったです。僕自身はあまり試合に出られず、ベンチで見守ることも多かったですが、観ていて負ける気がしなかったですから。1stステージは無敗で優勝しましたし、難しい試合でも引き分けに持ち込む勝負強さがあって、順調に勝点を積み重ねられました。

 もちろん、ペトロヴィッチ監督(北海道コンサドーレ札幌)の存在も大きかったです。あそこまで自分が目指すサッカーで結果を出し続けられる監督はなかなかいないし、相手がどこであろうと自分たちのやり方を貫いて結果を出す姿勢は、僕自身もすごく尊敬していました。もっとも、清水と比べてサッカースタイルが大きく変わったので、フィットするのは大変でしたね(苦笑)。清水では“止めて、前を向いて仕掛ける”、シンプルに言えばこのプレーの繰り返しで、ダイレクトプレーを使うことは多くありませんでした。でも、ミシャ(ペトロヴィッチ)さんのサッカーは、崩しの局面では周りとの連係やコンビネーションが重要なので、慣れるのに苦労しました。自分の持ち味でもあるドリブル回数も減りましたしね。それでも、ミシャさんのサッカーを経験して良かったなと思います。選手としての幅を広げてくれましたから。

写真=Jリーグ 浦和では代表クラスのプレーヤーが揃う分厚い選手層の前に出場機会こそ限られたが、刺激に溢れた日々の中で得られたモノは大きく、「選手としての幅が広がった」という

 加入2年目は選手が大幅に入れ替わり、ベンチに入ることも難しくなりました。それでもシーズンが進むにつれて、YBCルヴァンカップで結果を出しながら、何とかレギュラーに定着できた。そしてルヴァンカップでは優勝。僕にとってはプロ人生で初めてのタイトルだったので、すごくうれしかったです。監督も喜んでいましたし、ミシャと長く仕事をしてきた選手たちは「ミシャのために」と口を揃えていました。決勝はPK戦までもつれ込む接戦。僕自身は途中交代したのでPKは蹴っていませんが、4人目のキッカーあたりで、もう泣いていました(笑)。まだ結果は決まっていないのに、感極まって(照笑)。そういう意味でも、すごく印象的な試合の一つです。

 ちなみに、その16年はリーグ戦も年間勝点は1位だったんです。でも、チャンピオンシップ決勝で鹿島アントラーズに負けて年間王者を逃してしまった。正直、「理不尽だな」とは思いました(苦笑)。そのチャンピオンシップ決勝では、第1戦を1-0で競り勝って迎えたホームでの第2戦で起用してもらい、興梠慎三選手の先制点をアシストしました。そこで「(優勝は)決まったかな?」と思いましたが、そこから鹿島の勝負強さが出てきて……。鹿島は「失うモノはない」と勢い良く向かってきたので、やりづらかったです。15年と同様、シーズン中は負ける気がしなかったですし、圧倒的に強かったんですけど、一発勝負というルールをうまく生かす鹿島の勝負強さにやられました。

 それでも、翌17年にはAFCチャンピオンズリーグで優勝。グループステージはケガで出場できず、チームに貢献したという気持ちは少ないですが、ルヴァンカップ優勝とはまた違う喜びがありました。ラウンド16、準々決勝はいずれも逆転勝利と、勝ち進み方も劇的で、チームもどんどん盛り上がりましたからね。特に川崎フロンターレとの準々決勝は第1戦で1-3と敗れ、第2戦も先制点を奪われてしまい、1-4という“ほぼ終わり”の状況からの逆転劇だったので、より興奮しました。(第2戦で決めた逆転弾となったループシュートは)狙ったわけではないですが、正直ちょっと「持っているな」とは思いましたね(笑)。

 アル・ヒラル(サウジアラビア)と対戦した決勝も鮮明に覚えています。アウェイでの第1戦で途中出場しましたが、めちゃくちゃ緊張しました。1-0で勝っている状況だったので「ここで失点したらヤバイ」と(苦笑)。でも、敵地まで行ったからには試合に出たかったし、独特の雰囲気の中でプレーできたことはいい経験になりました。

 ホームで迎えた第2戦は、試合前からサポーターが作り出す雰囲気がすごかった。バスでスタジアムに入る時には、みんなで並んで歌っているサポーターの姿を見て、ラファエル シルバ選手(武漢卓爾)が感極まって泣き出して。宇賀神友弥選手も「入場する時に(サポーターが作った)コレオを見て泣いた」と話していましたし、あの試合はそういう選手ばかりでした。あれだけたくさんのサポーターが集まる浦和でしか作れない雰囲気だったと思います。僕自身は第2戦では出場機会はなかったですが、素晴らしい雰囲気を含めて、あのACL決勝の第2戦が、浦和に在籍した中で最も印象深いゲームです。

 浦和では3年間プレーしましたが、勝利を義務付けられているチームなので、常に背負っているモノの大きさを感じました。試合に出る時にはすごくプレッシャーがあるぶん、モチベーションも上がって。特にホーム(埼玉スタジアム2002)で戦う“ここぞ”という試合の雰囲気は本当にすごかったし、選手として「この(空気を味わう)ためにサッカーをやっているんだ」と思わせてくれた。もちろん清水時代ほど試合に出られなかった悔しさはありましたが、毎試合がビッグゲームのような感じで常に刺激があった。その中で、できることは精いっぱいやったかなと。無駄なことは一つもなかったし、濃い経験ができた3年間でした。

写真=吉田孝光 大会得点王に輝いた16年ルヴァン杯で自身初タイトルを手にすると、翌年にはアジア制覇に貢献。リーグ戦はステージ優勝にとどまったが、勝利を義務付けられる重圧の中で戦い続けた浦和での3年間は「無駄なことは一つもなかった」と振り返る

#05
一番サッカーを楽しめているセレッソでの時間
だからこそ「今いるこのメンバーで、何かを成し遂げたい」

 そして、昨シーズンからセレッソに加入しました。3度目の移籍になりましたが、環境を変えてチャレンジしたかったことが移籍を決断した理由です。セレッソへの移籍も決断するまでは早かったですね。

 加入1年目の昨シーズンは試合にも多く出場させてもらい、充実していました。タイトルを獲れなかったことは残念でしたし、個人の結果としても物足りなかったですが、それでも多く試合に出場し、ピリッとした刺激を得られたシーズンになりました。セレッソの雰囲気は、自分に合っていると思います。これまでで一番サッカーを楽しめていますから。年齢が近い選手が多く、年上の選手も特別に気を遣うようなタイプの選手がいないことも要因ですね。それに大阪という土地柄なのか、チームの雰囲気もすごく明るい。僕自身が年を重ねたこともあるかもしれませんが、あまり気を遣わず、素の自分でいられる。何か解放されています(笑)。

 ただ、チームとしても、個人としても、もっと結果にこだわりたい。プロである以上はやっぱり結果に尽きると思いますから。僕自身、(スタメンを勝ち獲れていない)今の立ち位置には満足していません。もっとやらないといけないし、もっと上を目指したい。ただ、結果を求め過ぎるあまりプレーに悪影響が出てしまう時もあるので、そこは難しいところですね。

 最近思うのは、サッカー選手でいる間はずっとメンタルとの戦いが続くのかなと。いかに“平常心”でいられるか、それが大事。コンスタントに結果を残せるのは、やっぱり常に平常心を保てる選手だと思います。昔から僕はメンタル面に課題があり、それによる調子の波もあります。今でも決定機でシュートを外してしまうと、ついつい考え込んでしまうことも多いですしね。

 どうやって消化したらいいのか悩んだりもするのですが、最近は良いイメージを作るために、YouTubeでマイケル・オーウェン(元イングランド代表FW)のゴール集を観ています。シュートの前に「何を考えているのかな?」と。まあ、考えは読めないですけど(苦笑)、何か参考になることはないかなと思って観ているんです。オーウェンの場合、圧倒的なスピードでDFをぶち抜いて、チョンと(GKを外して)決める。派手なゴールは多くなくても、しっかり一対一を決めているんですよね。海外の選手は身体能力を含めて、自分とはかけ離れている選手も多いですが、“スピードを生かした小柄なFW”で誰かをお手本にするなら、オーウェンかなと思って観ています。

 あと、最近は試合前に緊張した時は「緊張して当たり前だ」と思うようにしています。ありのままを受け入れようと。そうやってメンタルを安定させて、一つでも多くのゴールを決めて、勝利に貢献したい。チームとしても、今シーズンは何かタイトルを獲りたいですね。今いるこのメンバーで、何かを成し遂げたい気持ちは強く持っています。

昨シーズンからセレッソに加入すると、ゼロックス杯でいきなり決勝点を挙げるなど、すぐにフィット。攻撃の切り札として存在感を示しているが、「もっとやらないといけないし、もっと上を目指したい」と強い気持ちを胸に秘めている
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