TWELFTH
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「楽しむ」という原点を忘れずに

写真=浅尾心祐 文=小島鉄平

桜の戦士たち一人ひとりにフォーカスし、そのサッカー人生の歩みを紐解いていく
ファンクラブ会報誌『TWELFTH』のウェブ限定コンテンツ「SAKURA BIOGRAPHY」。
第5回は、最前線から最終ラインまでハイレベルでこなす超万能プレーヤー山村和也が登場。
これまで歩んできた自身のサッカーキャリアについて、その軌跡を辿ってもらった。
前編では、サッカーと出会った幼少期から学生時代を中心にスポットを当てる。

山村の充実度を表すバイオグラフ。起伏はあるもののプラスで推移している期間が長いことから、サッカーを楽しみながらキャリアを重ねてきたことが分かる

#01
「楽しい」という感覚しかなかった小・中学生時代
最も衝撃を受けたのは“あの選手”だった

 サッカーと出会いは4~5歳の頃。隣の家に住んでいた小学生のお兄ちゃんがサッカー部で、一緒に遊んでもらいながらボールを蹴っていました。チームに入ったのは小学校3年生の時です。兄もサッカーをしていて、同じ桜が丘少年サッカークラブに入りました。小さい頃は外で遊ぶことが好きで、ほとんど家にいなかったですね。遊んでいて骨折をしたり、ケガが多い活発な子どもでした(笑)。

 桜が丘少年サッカークラブでは仲間にも恵まれ、僕たちの年代は長崎県大会で何度か優勝したり、結構強いチームでした。といっても、クラブチームではないので当初は学校の先生が練習を見てくださっていたんですが、5~6年生になってからサッカー経験のあるコーチも練習を見に来てくれるようになりました。当時のポジションはFW。足も速かったんですよ(笑)。整列する時はいつも後ろから2~3番目だったので、身長も大きいほうでしたね。テクニックはなかったですが、足の速さとキックの強さで点を取る、小学生時代によくいる(運動能力でプレーする)タイプの選手でした(笑)。

 小学生当時はあまりJリーグは観ていませんでしたが、1998年のフランス・ワールドカップは覚えています。特に日本代表と対戦した、アルゼンチン代表のファン・セバスティアン・ベロン。(スキンヘッドにヒゲという)風貌も相まって、強烈なインパクトが残っています。

 6年生時には長崎県代表として全日本少年サッカー大会の全国大会にも出場しました。予選リーグ敗退と結果は出ませんでしたが、各都道府県のいろいろな選手が出ていて刺激になりましたね。後々聞いた話では、対戦相手に当時4年生だった原口元気選手(ハノーファー)もいたらしいです。でも、一番印象に残っているのは(清武)弘嗣。オーバヘッドキックでGKに競り勝ったり、「こんなレベルの選手がいるのか!」と衝撃を受けましたから。対戦したことはなかったので僕が一方的に知っているだけでしたが、弘嗣は大分県の明治北(小学校サッカークラブ)だったので九州大会で試合を観ることもあり、「あれが清武弘嗣だ!」ってザワザワと騒いでいました(笑)。

全国大会にも出場していた小学生時代、最も衝撃を受けたのは現在のチームメートである清武弘嗣(写真中央)だったという。同級生ながら「こんなレベルの選手がいるのか!」と驚きを隠せなかったという

 中学は指導者の方からの勧めもあって、国見中学校に進学しました。僕自身もサッカーを真剣にやりたかったし、強い学校に入りたかったので、いくつか話をいただいた中から国見中学校を選びました。当時は長崎県のことしか知らなかったので、Jクラブのアカデミーに行くという選択肢は全くになかったです。

 国見中学校は全国大会にも出場する強豪で、1年生の頃はレギュラー争いに絡めず、BチームやCチームでワイワイやっている感じでした。僕は実家から学校が遠かったので下宿していたんですが、3人部屋でみんな同級生だったから大変だった記憶はなく、むしろ楽しめていたと思います。

 試合に絡み始めたのは2年生の途中から。ポジションは2年になってFWからボランチにコンバートされました。でも、FWにこだわりがあったわけではなかったので、特に何とも思いませんでしたね(笑)。やっぱり試合に出たかったんだと思います。プレースタイルとしては、ドリブルなどの個人技を多用するわけではなく、シンプルにボールをさばく感じ。方向性的には今と変わらないですね。

 練習で覚えているのは、小・中学時代ともに個人技術のトレーニングが多かったこと。陸上トラックに沿ってずっとドリブルをしたり、ボールを扱う練習をしていました。特に中学校では30分~1時間くらいは毎日ドリブル練習があって。並べたコーンの間をドリブルしたり、対面の相手をドリブルでかわしたり。コーチに話を聞いたところ、「中学生は成長期だからボールを扱う感覚も変わってくる」という理由から、3年間ボールを触らせ続けるという意味合いがあったらしいです。一対一の練習も毎日のようにやっていましたし、ボールを扱う技術はこの時期に学びましたね。

 中学では2年生から2年連続で全国大会にも出場しました。2年生時は試合に出られませんでしたが、3年生時にはキャプテンとして全国で3位になって。すごく足が速い選手がいたり、サッカーセンスを感じる選手がいたり、チームメートに恵まれていたと思います。僕自身もチームメートのプレーを真似ながら、いろいろなことを吸収できました。ただ、キャプテンとしては何もしていないですよ。厳しく言うようにはしていたので、「うるさいな」と思われていたかもしれませんね(笑)。

 中学時代はほとんどサッカーしかやっていませんでした。正直、学校生活の記憶はありません(苦笑)。思い出と言えば、サッカーのことばかり。その中でも一番は、やっぱり全国大会で3位になったこと。小・中学生の頃は、本当に「楽しい」という感覚しかなかったので、グラフ的もずっと「+80」くらいをキープしていましたね。

#02
肉体的、精神的に鍛え抜かれた名門校での3年間
初の代表選出が人生のターニングポイントに

 高校は国見高校に進みました。中学進学当時、(大久保)嘉人さん(ジュビロ磐田)が国見高校の3年生で、全国大会でも活躍されていたので憧れも強かったですし、自分の中では中学に入る時から国見高校に行こうと決めていました。

 ただ、練習はキツかったです(苦笑)。1~2年生時は小嶺(忠敏)先生、3年生時は瀧上(知巳)さんに指導していただきましたが、小・中学時代に比べて技術的な練習よりも走りなどの肉体的な練習メニューが多かったですから。たぶん、皆さんのイメージどおりですよ(笑)。それでも1年生からトップチームの試合に絡めて、全国高校サッカー選手権大会にも出させてもらいましたし、充実していました。

 でも、2年生で一変して……。初めてサッカーをやっていて辛い時期でした。ボール扱いの一つひとつがうまくいかず、自信を失いかけましたし、サッカーで一番悩んだ時期だったかもしれません。この時はグラフも初めてマイナスまで落ち込みましたし、相談もせず、一人で悩み抜きました。でも、3年生になって上級生がいなくなった時に「気持ちを切り替えて頑張ろう」と思い直して、少しずつうまく循環するようになって。「やるしかない」と吹っ切ったような感じでした。

 高校では1年生時はトップ下とボランチ、2年生の途中から3バックのストッパー、3年生ではFW、トップ下をやりながら最終的にはセンターバックになりました。振り返ると、当時からいろいろなポジションをやっていたので、その経験が今にも生きているのかなと。どのポジションでプレーするのも楽しかったですよ。毎回、新鮮な気持ちになったし、指導者の方から言われたことをピッチでどう表現するか必死で考えていました。

 高校時代は部員数も多く、競争も激しかったので「濃かった」という印象が強いです。技術的にうまい選手もいれば、身体能力が優れた選手もいて、負けないように必死でしたし、練習量もすごかったので「キツかった」という感覚しかない(笑)。練習は毎朝6時10分からあって、授業後は16時~19時頃まで。夏休みや冬休みもなく、1年で3日くらいしか休んだ記憶がありません(笑)。それに寮生活だったので、15メートルくらいの距離にある寮と学校だけを3年間、毎日行き来していました。

 もちろん外出も禁止。当然コンビニなんて行けないし、初めて私服を買ったのは大学生になってからでした(笑)。ただ、みんながそういう環境だったので仲間意識は強かったし、寮生活も楽しかったですよ。今でも付き合いがある同級生もいますし、たまに会うと思い出話で盛り上がります。

 生活面の指導も厳しかったですね。例えば、10キロ走をしている時も「町民の人がいたら止まって挨拶しろ!」と言われていましたから。「タイム設定があるのに立ち止まるの!?」と思ったりもしましたが、そういった礼儀をはじめ、私生活でのマナーも厳しく言われたので、そこで身についたことも多かったですね。

写真=浅尾心祐 高校サッカーの名門校、国見高校では激しい練習で徹底的に鍛え抜かれ「キツかった感覚しかない(笑)」という山村。それでも仲間との絆は強く、濃密な時間だったようだ

 3年生時に初めて(U-18)日本代表に選出されたんですが、初招集がドイツ遠征だったんですよ。それまでは代表を意識していなったので突然選ばれて驚きましたし、海外に行くのも初めてだったので、急いでパスポートを作りに行きながら「俺、代表に行くの?」と緊張からノドがカラカラになった記憶があります(笑)。

 ただ、その代表選出が一つのターニングポイントでした。小学生の頃から「好きなサッカーで(プロとして)お金を稼げたらいいな」とぼんやり思っていましたが、どこかで「プロは無理だろうな」と思う自分もいて。そんな時に代表に選ばれたことで、一気に人生が拓けたような気がして。だから、グラフも一気に「+100」に。本当に人生の分岐点だったと思います。

 U-18代表では3回目の招集時に(柿谷)曜一朗と一緒になって。ゲーム形式でシュートを決める練習をやっていた時、曜一朗が角度のないところから右足でループシュートを決めたんですよ。「あれ、狙ったのかな?」と少し疑問に思っていたら、その2~3分後に今度は左足で同じようにループシュートを決めて、「こんなにすごい選手がいるのか!」と衝撃を受けましたね。弘嗣もそうですけど、曜一朗も同年代のスターです。それが今、セレッソに集まっているというのも何かの縁ですよね。

 U-18代表で高いレベルを肌で感じたことで、「今(プロに)行っても厳しいな」という現実も知りました。「自分にはもっとやることがある」と。国見高校では3年時にキャプテンを任されましたが、自分の代で選手権の連続出場が途絶えてしまって……。その時は本当に落ち込みましたし、学校にも行きたくなかったです。

 高校3年間を振り返ると、特にフィジカル面をすごく鍛えられました。技術も養われたとは思いますが、何と言っても体力や肉体面、精神面ですよね。他の選手にも絶対に負けていないと言えるくらい、厳しく鍛えてもらったと思います(笑)。

#03
サッカー人生を懸けて臨んだ大学4年間
初のA代表に選出されるも、どん底を味わう

写真=松岡健三郎/アフロ 当時の大学サッカーを席巻していた流通経済大学では1年からレギュラーとして活躍。年代別代表の常連にもなり、大きな期待を寄せられた

 大学進学にあたり、僕の中では「この4年間でプロになれなかったら、サッカーを辞めよう」と思っていたんです。だからこそ「しっかりとプレーできる大学を」と考える中で、中野(雄二)監督が直々に話しに来ていただいたことにも心を動かされ、流通経済大学に進もうと決めました。

 流通経済大学は当時JFLに参戦していたこともあって試合数も多く、1年生から出場機会をもらえました。JFLは1.5軍のような位置づけで、レギュラー組が関東大学サッカーリーグ1部でプレーしていたんですが、1年生の夏頃に染谷(悠太)さん(京都サンガF.C.)がケガをしたことで、僕が1部リーグのメンバーに入るようになって。それからはずっとレギュラー組でした。当時は大学リーグとJFLで登録を分ける必要がなかったので、大学リーグがない時はJFLにも出場していましたね。

 大学時代も寮でしたが、何の苦もなかったです。他の選手からすれば、自宅から通う選手もいる中での寮生活だから苦痛だったかもしれませんが、僕からしたら(高校時代と比べて)自由があり過ぎて楽しかった(笑)。初めて社会の中に入っていけた気分というか、ちょっと大人に近づいた気がして新鮮でした。人間関係も和気あいあいとしていて楽しかったですよ。

写真=松岡健三郎/アフロ 当時の大学サッカーを席巻していた流通経済大学では1年からレギュラーとして活躍。年代別代表の常連にもなり、大きな期待を寄せられた

 大学と並行してU-19日本代表にも選んでいただいて、1年生時にはカタール国際親善大会がありました。そこが僕にとって一つの分岐点でしたね。というのも、当時の監督だった小倉(勉)さんがボランチを任せてくれて。その大会で優勝して、MVPを獲ることもできたんです。大学ではずっとセンターバックでしたが、カタール国際以降、代表ではボランチでプレーするようになりました。

 (2つのポジションでプレーすることは)刺激にもなりましたし、楽しくやらせてもらっていましたが、もちろん難しさもありました。でも、流通経済大学は後ろからしっかりボールをつなぐスタイルだったので、守備練習よりもボールを大事する練習メニューが多く、それが代表でボランチをやる時にも生きていたように思います。

 大学で順調なスタートを切ることができた中、10年のアジアカップ予選で初めてA代表に選出されたんです。アウェイでのイエメン代表戦でした。ただ……初のA代表は苦い思い出しかありません(苦笑)。まずめちゃくちゃ緊張しましたし、高地ということもあって思うようなプレーが全くできず、オウンゴールもしてしまって……前半だけで交代させられてしまったんです。交代自体は妥当だったと思いますが、本当に落ち込みましたし、グラフもどん底の「-100」まで下がりました。

 それでも同年6月の南アフリカW杯では、香川真司さん(ドルトムント)、酒井高徳選手(ハンブルガーSV)、永井謙佑選手(FC東京)と一緒にサポートメンバーとして日本代表に帯同させてもらって。W杯メンバーと同じ宿舎で、紅白戦も相手側のセンターバックとしてプレーさせてもらったり、(W杯期間を)高いレベルの選手と過ごせたことはすごく勉強になりました。選手間ミーティングにも交ぜてもらえて、傍から見ていても意見を出し合いながら本大会に向けてチームがまとまっていく雰囲気を感じました。敗退が決まった(ラウンド16の)パラグアイ戦まで帯同させてもらいましたが、本当にいい経験になったし、初戦のカメルーン戦では感極まって「自分もここに立ちたい!」と強く思いましたね。

写真=澤田仁典/アフロ 2010年のアジアカップ予選イエメン戦で大学生ながら日本代表に初選出。しかし、緊張から本来のプレーができず、苦い思い出に
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「楽しむ」という原点を忘れずに

写真=浅尾心祐 文=小島鉄平

桜の戦士たち一人ひとりにフォーカスし、そのサッカー人生の歩みを紐解いていく
ファンクラブ会報誌『TWELFTH』のウェブ限定コンテンツ「SAKURA BIOGRAPHY」。
第5回は、最前線から最終ラインまでハイレベルでこなす超万能プレーヤー山村和也が登場。
これまで歩んできた自身のサッカーキャリアについて、その軌跡を辿ってもらった。
後編では、ロンドン・オリンピックやプロ生活、そして思い描く未来像に迫る。

キャリアを振り返りながら、山村自身が記した折れ線グラフ。A代表や年代別代表で多忙を極めた時期の浮き沈みは激しいが、それ以外は概ね高い充実度で推移している

#04
年代別日本代表の中軸を担った大学時代
プロになる決意、そして自信も明確に

 2011年の大学4年生時に、関塚(隆)さんが監督をしてくれたU-21日本代表が広州アジア競技大会から始動しました。僕たち大学生や当時Jリーグで出場機会が少なかった選手が中心でしたが、そこで優勝できたのは自信になりましたね。そういえば(山口)蛍と初めてダブルボランチでコンビを組んだのも、このアジア競技大会でした。

 アジア競技大会からロンドン・オリンピックのアジア予選まではU-21、U-22代表のキャプテンを務めましたが、アジア予選はケガであまり試合に出られなくて……。ケガから復帰した最終予選のシリア戦もパフォーマンスが悪く、その時はさすがにグラフも「-30」に下がりました。

 アジア予選はやっぱり難しかったです。アウェイでは独特の雰囲気がありますし、国によっては「本当にサッカーができるの?」と思うくらい荒れたグラウンドもあって。それでも五輪を目指すチームに携わる中で、そういった様々な経験ができたことは良かったです。チームの雰囲気も良く、メンバー間の仲も良かったですしね。
 
 振り返ってみると、大学時代は本当に様々な高いレベルの選手とプレーする機会に恵まれました。当時の流通経済大学は、日本代表の練習試合の対戦相手になることもありましたし、そういった経験を重ねるごとに「プロとしてやっていきたい」という気持ちが強くなり、「やっていける」という自信もついた4年間になりました。

 また、大学ではオフの時間を楽しむというか、オンオフの切り替えも身につきました。当時はビリヤードにハマって、オフ時は大学近くの漫画喫茶に入り浸って、よく増田卓也(V・ファーレン長崎)たちとビリヤードをやっていました(笑)。そして、12年1月には結婚もしました。プロの道へ踏み出す前に覚悟を決めるため、というわけでもないですが、当時から妻は頑張って僕を支えてくれていましたし、プロの舞台でその思いに応えられるようにしたいという気持ちもあって、プロ入り前に結婚することを決めたんです。

写真=Getty Images 11年から始動したロンドン五輪を目指すU-21日本代表ではキャプテンに就任。ケガで離脱する悔しい時期もあったが、主力としてチームを支えた

#05
鹿順風満帆ではなかった鹿島でのプロ生活
挫折を味わうも自身を見つめ直す貴重な時間に

写真=Getty Images プロ1年目で迎えたロンドン五輪本大会ではレギュラーの座こそつかめなかったが、国際的な大舞台を経験したことで得たモノも大きかった

 大学卒業後は鹿島アントラーズに加入。もちろん素晴らしいチームであることは知っていましたし、いろいろな人に相談する中でも「鹿島はすごいチームだぞ」という声を聴いていたので、「鹿島で頑張りたい」という気持ちで加入を決断しました。

 Jリーグデビューは、12年のJ1第2節川崎フロンターレ戦。後半のスタートからボランチで途中出場しました。ただ、練習ではずっとセンターバックだったので「後半から行くぞ」と言われた時は、「センターバックを代えるのかな?」と思っていたんですが、蓋を開けてみたらボランチで(笑)。それでもボランチは代表で経験していましたから、特に緊張することはなかったし、0-1で負けている状況だったので「しっかりプレーしよう」という気持ちでした。

 プロになったなと実感したのは、プロ入り後に初めて勝利した時。12年は開幕からなかなか勝てなくて、第6節FC東京戦でようやく勝つことができたんですが、試合後にサポーターのところへ挨拶に行ったらすごい声援をもらって。その時に「プロはこうやって(サポーターと一緒に)戦っていくんだな」と実感したんです。

 プロ1年目はロンドン五輪前までは順調でした。ただ、五輪ではグループステージ第3節ホンジュラス戦こそフル出場しましたが、それ以外はあまり出場機会がなかったので正直、悔しい思いもありました。でもチームが(ベスト4まで)勝ち進んでいく中で、喜びもすごく感じられて。五輪という大きな国際大会を素晴らしい仲間たちと一緒に戦うことができたのはいい経験になったのかなと思います。

写真=Getty Images プロ1年目で迎えたロンドン五輪本大会ではレギュラーの座こそつかめなかったが、国際的な大舞台を経験したことで得たモノも大きかった

 その後、鹿島に戻って「ここから」というタイミングで鎖骨を骨折してしまって……。12年はそのまま試合に出ることなく終わりました。プロ入り前に中足骨骨折で手術をして、プロになって少しずつコンディションが上がって「ようやく自分らしいプレーができるようになってきたな」と感じていた矢先のケガだったので、「うまくいかないな」と。ちょっと悔いが残るプロ1年目でしたね。

 その悔しさを振り払おうと迎えた翌13年も、開幕当初はなかなか試合に出られず。ただ、監督がジョルジーニョさんからトニーニョ・セレーゾさんに代わり、守備の仕方も変わる中で学ぶことは多かったです。それまでは守備面で考えさせられることはあまりなかったのですが、例えば(相手のポストプレー時など)後ろ向きの相手を抑える時のボールへのアプローチ方法だったり、相手がボールを持っている時のディフェンスラインの上げ方だったり、細かな守備戦術や技術を教えてもらって。そこまで細かく指導してもらうのは初めてだったので新鮮でしたし、DFとしてプレーする上ですごく勉強になりました。7月頃からはレギュラーもつかんで試合にも出続けられましたし、大きな1年になったかなと思います。

 でも、その後の14~15年は難しい2年間になりました。うまくいかないというか、細かな守備戦術がある中で監督の要望に応えられず、出場機会が減っていって。なかなか自分のリズムを取り戻せないままズルズルいってしまったなと。その後、15年途中に石井(正忠)さんに監督が代わってからは再びボランチでプレーするようになって、僕自身も「新たな気持ちで頑張ろう」と決意してリズムを取り戻し、試合にも絡めるようになりました。起用してくれた石井さんの期待に応えたいという思いも強く、それが僕自身の気持ちを変化させてくれたのだと思います。

 この2年間は確かに悔しかったですが、プロとしてやっていく上で、自分の甘さを実感する時間になったのかなと。プロの厳しさを改めて感じられましたし、自分を見つめ直すという意味ではいい機会になったのかなと思っています。

 4年間在籍した鹿島ですが、やっぱりサッカーと向き合う姿勢はすごいなと感じました。日々、試合につながる練習がしっかりできているというか、それぞれが練習からしっかりサッカーと向き合っている。気が抜けている選手がいれば、周りから注意されることもありました。先輩にしても、(小笠原)満男さんの年代の選手たちは人間的にも立派な方ばかりでしたし、プロとしての姿勢も含めて「どうあるべきか」を考えさせられましたし、すごく影響も受けたました。

写真=Jリーグ 鹿島では4年間プレー。出場機会が限られるシーズンもあったが、常にサッカーと向き合う中でプロとして、人として成長を遂げた

#06
チームとともに成長できたセレッソでの3年間
これからも「楽しむ心」を胸に成長を目指す

 鹿島時代はケガもあって1年を通して継続して試合に出たシーズンがなかったので、チームを代えて、新たな競争の中に飛び込んで試合に絡んでいきたいという思いが、16年に移籍を決めた理由でした。その中でセレッソを選んだのは、タレントがいながらJ2で苦しんでいたこともあって「一緒にJ1へ上がりたい」という気持ちも強かったし、同年代の選手が多く、いい競争の中でサッカーに取り組めると感じたからです。

 加入1年目はセレッソデビュー戦(J2第1節FC町田ゼルビア戦)でゴールを決められましたし、いいスタートを切れました。夏に蛍がドイツから復帰してからは先発出場の機会は減りましたが、シーズンを通してベンチ入りメンバーに入り続けたのは初めてでしたからね。1年間のサイクル、コンディショニングや体のケアを意識して取り組むことができ、充実したシーズンになりました。

 ただ、初めてのJ2は想像していたよりも難しいリーグでした。J1はJ1の難しさがありますが、J2はまた独特の難しさがあるというか。苦しみながらJ1昇格を目指すという経験も初めてでしたしね。シーズン途中からは途中出場が増え、J1昇格プレーオフでは(ボランチよりも)センターバック的な役割で守備を固めるための投入が多くなりましたが、そこは鹿島での4年間が生きたかなと思います。J1昇格が決まった瞬間は、本当にうれしかった。グラフ的にも「+90」まで上がりました。

 17年は、想像もしていなかった1年になりましたね。尹(晶煥)さんがトップ下にコンバートしてくれたことで、見える景色が変わって。センターバック、ボランチ、トップ下……ポジションに応じていろいろなプレーの考え方ができるようになり、選手としての視野が広がったかなと。また、試合中にポジションを変える経験もあまりなかったし、プロになってからはほとんど3バックでプレーしていなかったので、そういった意味でも新鮮な1年でした。

 チームとしてもJ2から這い上がってきて、一丸となって戦ってルヴァンカップで優勝。そこに僕自身も貢献できたので、鹿島時代とはまた違った思いで優勝を味わえました。また天皇杯では決勝の舞台で点を決めることができ、これからも記憶に残る思い出深い優勝になったと思います。2冠を達成した17年は、グラフも「+100」です。

昨シーズンはトップ下へのコンバートをはじめ、「想像もしていなかった」充実の1年に。天皇杯決勝では貴重な同点ゴールを決めるなど、2冠獲得にも大きく貢献した

 今シーズンに関しては……言い訳になるもしれませんが、シーズンオフが短かった中でチームとしても、個人としても調整がうまくできず、僕自身はケガもしてしまいましたし、いい流れを作れなかったシーズンになってしまったと思います。個人的にはAFCチャンピオンズリーグで初めてピッチに立てて、アウェイのブリーラム・ユナイテッド戦での気温差だったり、環境の異なる国でのプレーを体感することができました。日本代表としてのアウェイ戦は経験していましたが、アジアのクラブチームとアウェイで対戦するのは初めてだったので新鮮さや楽しさもあった反面、結果が伴わなかったので、すごく悔しかったです。

 ただ、セレッソに加入してからの3年間は、楽しくサッカーができましたし、チームとともに僕自身も成長できたと感じています。充実感もありましたし、今後セレッソというチームはもっと良くなっていくなという可能性も感じることができました。

 これからの将来像ですか? 息子がいるので、なるべく長くサッカーを続けたいですし、これまで経験してきたことを下の世代に伝えられたらと思います。まだ29歳ですから、まだまだ成長できると思いますし、これまで代表の節目、節目で悔しい思いをしてきたので、もう一回代表に入りたいという気持ちもあります。だから、これからも努力を怠らずに頑張りたいですね。将来的には「子どもとサッカーをやりたい」という思いもあるので、40歳くらいまでは高いレベルでプレーしたいなと思っています。

 これまでのサッカー人生で僕自身が大事にしてきたのは「サッカーは楽しいもの」という原点。高校2年生時にサッカーがうまくいかず悩んでいた時、「何で親元を離れてサッカーをしているんだろう?」と考えたことがあって。その時に「楽しいからサッカーをやっているんだ」と気付いて、「この苦しい状況で辞めたら後悔する」と思ったんです。それ以来、「サッカーを楽しむ」という原点はいつも大事にしていますね。だから、今も楽しくサッカーをやれていますし、これからも(気持ちは)上がっていく一方だと思っています。

写真=浅尾心祐 「子どもとサッカーをやりたい」と将来の夢を笑顔で語った山村。そんな思い描く未来を叶えるためにも、これからも楽しくサッカー人生を歩んでいく
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取材協力店
Premium Marche ROMAN(プレミアムマルシェロマン)

住所:大阪市北区大淀中5-12-33-19
※セレッソフットサルパークに併設
電話:06-6459-7377
営業時間:11:30~15:00(L.O14:00)
定休日:日曜、祝日

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