TWELFTH
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楽しみながら、常に前を向いて

写真=吉田孝光 文=小田尚史

桜の戦士たち一人ひとりにフォーカスし、そのサッカー人生の歩みを紐解いていく
ファンクラブ会報誌『TWELFTH』のウェブ限定コンテンツ「SAKURA BIOGRAPHY」。
第3回は、今シーズンHJKヘルシンキから加入した田中亜土夢が登場。
これまでのサッカー人生について、たっぷりと振り返ってもらった。
前編ではキャリアのスタートである10代を中心にスポットを当て、その軌跡を辿る。

田中選手の心の充実度を示す折れ線グラフ。上下動はあるものの、マイナスが一度もないことが示すとおり、楽しみながらサッカー人生を歩んでいることが窺える

#01
いつも充実していた小・中学生時代
挫折も味わった高校進学でプロへの思いを固める

 サッカーを始めたきっかけは、兄2人の影響です。幼稚園の頃からボールを蹴り始めて、兄たちと一緒に家の前でサッカーをしていました。兄は1つ上と5つ上で、2人とも背が大きく、最初は(勝負をしても)全然勝てなかった。でも、サッカーにはすぐにハマりました。雪国の新潟県だけに、スノーボードもやっていたんですが、やっぱりサッカーが一番楽しかったですね。

 チームに入ったのは小学4年の時。地元ではなく少し離れた場所でしたが、父の知り合いがいたこともあり、新通イーグルスという少年団に入ったんです。いつも車で30分くらいかけて通っていました。チームに入るのは初めてでしたが、最初から楽しかったですね。加入してすぐにリフティング大会があったのですが、リフティングは家の前でずっと兄たちと練習していたので、チームに入る前から200回くらいはできたんです。だから、そのリフティング大会で上位に入り、さらに「サッカー、楽しい!」ってなりました(笑)。

 その後も小学4年生ながら、5・6年生チームの夏合宿に連れて行ってもらったり、スタメンではなかったけど、試合にも出してもらいました。レギュラーをつかんだのは、5年生になってから。当時のポジションはFWで、バリバリ点を取っていましたね。だからグラフの充実度も小学4年時の「+50」からスタートして、小学6年時には「+80」と順調に上がっていきました。小学生時代は冬場にあったフットサル大会にも出場したり、本当に楽しかった記憶ばかり残っています。

 小学校卒業後は、地元の新潟市立木戸中学校に進学してサッカー部に入りました。まあまあ強い学校だったので、1年生の頃はメンバーには入るけど、試合に出られなくて。ちょうど新通イーグルスに入った直後の小学4年生頃と同じような感じでしたね。

 2年生になってからはレギュラーに定着したんですが、同学年に一人すごいヤツがいたんですよ。体が大きくて、パワーがあって、一人でゴリゴリ行けるタイプ。その選手はボランチだったんですが、僕がCKを蹴って、彼が合わせるという形が得点パターンでした。彼がいたから、より「頑張ろう」と思ったし、「負けたくない」という気持ちにさせてくれる良きライバルでした。

 3年時には中体連の大会、高円宮杯(新潟県U-15サッカーリーグ)で県を制して北信越大会に進みましたが、どちらもそこで敗退してしまって、全国大会に出場することはできませんでした。ただ、グラフの充実度としては、試合に出られなかった中学1年時こそ少し下がりましたが、すぐに戻り、そこからは右肩上がりでしたね。

写真=吉田孝光 小・中学生時代について、当時を思い出しながら笑顔を交えて語る田中。どちらの時代もグラフは右肩上がりだった

 実は、中学卒業前にはサンフレッチェ広島ユースのセレクションを受けたんです。新潟県大会に広島のスカウトの方が来ていて、「最終選考に参加してみないか?」と声を掛けていただいて。でも、セレクションには落ちてしまいました。その時、広島ユースと練習試合をして感じたのは「全然レベルが違う」ということ。体つきも含めて、「かなりハイレベルだな」と。もし、広島のセレクションに受かっていたら、その後のサッカー人生も大きく変わっていたかもしれませんね(笑)。

 高校進学を考えた時、アルビレックス新潟のユースに行くという選択肢は正直なかったです。当時はユースからトップチームに昇格している選手がいなかったですから。また、県内の高校への進学も考えていませんでした。僕が中学生だった頃、新潟県から(全国高校サッカー)選手権に出場した高校は1回戦負けや2回戦負けが多く、正直あまりレベルが高くなかった。だから、県内の高校に進んでも「プロへの道は遠い」と思ったんです。

 ただ、そうやって進学先について考えるうちに「プロになりたい」という思いは自然と固まっていきました。広島ユースのセレクションには落ちましたが、結果的に進学することになった前橋育英高校は、その広島のスカウトの方に紹介していただいたんですよ。中学3年の夏に練習会に参加して、その時に学校の方の目にも止まって。でも、他にもうまい選手は多かったですよ。群馬県のトレセンに入っているような選手もいたし、いろいろな県から選手が来ていて、「ここでプレーできたら成長できる」と思いました。毎年、プロに行く選手が何人も出るような強豪校ですし、「自分にもプロに行けるチャンスがあるかもしれない」と感じて、進学を決心しました。

#02
ガムシャラにサッカーと向き合った3年間
その先に待っていた念願のプロへの扉

 高校時代は寮生活でした。サッカー部で借りているアパートがあって、そこに4人暮らし。そういった部屋が7~8部屋あったと思います。当時、新潟県内から前橋育英に進学したのは僕も含めて3人。だから、知り合いもいました。部員数は僕が1年生の時、全学年合わせて130人くらい。1年生の時はたまに試合に出られるくらいで、レギュラーではなかったですね。チームとしては冬の選手権に出場しましたが、僕自身はサブだったので試合には出られず。前橋育英も、1回戦で負けてしまいました。
 
 2年の新人戦からはスタメンを勝ち取って、準決勝で国見高校に負けたもののインターハイでは3位に入りました。でも、その一方で冬の選手権には出られず……。最高学年になった3年時は、県予選での敗退が続いてインターハイにも、選手権にも出ることができませんでした。そうなると自然と部員数も減っていって、僕の3年時には80人くらいになっていましたね(苦笑)。

 高校3年間を振り返ると、「本当によく走ったな」と(笑)。山田(耕介)監督の練習は、すごく厳しかったですから。でも、前橋育英という関東圏の名門校に進学できたことで、いろいろなチームと対戦できたのは本当に良かったと思います。やっぱり北信越と比べると、関東のほうがチーム数も多いし、環境も整っていますからね。レベルの高い相手と対戦する機会も多く、ずっと高いレベルでサッカーに取り組むことができました。

 といっても、入部当時から「頑張ればやれる」という手応えはありました。何より「プロになる」と決意しての進学だったので、3年間、気持ちを折らずにやり抜けた。もちろん競争は激しかったですが、とにかく「やらないといけない」強い気持ちを持っていたし、高校3年間はひたすらガムシャラにサッカーと向き合っていたように思います。

 グラフ的には中学時代と同じような感じ。(スタメンをつかめなかった)1年生の時だけ少し下がって、そこからはどんどん上がっていきました。ポジションは、中学時代はトップ下のような感じでしたけど、高校ではFWやサイドハーフ。走るのが得意で、ガンガン走っていたので2列目のサイドが一番多かったと思います。

 「プロになれるのでは?」と感じたのは、アルビレックス新潟の練習に参加させてもらった2年生の時。1学年上の先輩と一緒に行ったんですけど、その時に「このまましっかりやっていけば、プロになるチャンスはある」と感じて。その翌年、プロになれると分かった時には本当にうれしかったですね。それも地元の新潟でプロになれたので、喜びも一層大きかったです。両親もすごく喜んでくれました。

写真提供=田中亜土夢 「3年間、気持ちを折らずにやり抜けた」と語る前橋育英高校時代。全国高校サッカー選手権の出場こそ叶わなかったが、背番号10を背負い、チームの中心として躍動した

#03
「しんどい」記憶しかないJリーグデビュー
U-20W杯で世界を体感し、グラフは「+100」に

写真=Jリーグ JFA・Jリーグ特別選手だった05年、高校生ながらJ1第33節名古屋戦でJデビュー。「とにかくしんどかった」と振り返るが、61分まで堂々たるプレーを見せ、1-0の勝利に貢献した

 Jリーグデビューは、JFA・Jリーグ特別指定選手になった高校3年生の時です。2005年のリーグ戦ラスト2試合。その時点でJ2に降格しないことは決まっていたので、当時指揮を執っていた反町(康治)さん(松本山雅FC監督)が起用してくれました。アウェイの名古屋グランパス戦でデビューしたんですけど、覚えているのは「とにかくしんどかった」ということ(苦笑)。

 高校の試合では余裕で90分走れたんですけど、プロの試合では息がめちゃくちゃ上がって、足もつりそうになりました。結果的に、思ったように動けなくて途中交代。新潟は、当時も“走ってカウンター”というスタイルでしたが、高校とはスピードが全然違って、キツかった。反町さんからどんな言葉を掛けられたとか、そういうことは全く覚えていません。本当に「しんどかった」という記憶だけで(苦笑)。といっても、反町さんはすごくオーラがある方で、高校生の僕にとっては話し掛けることもできないような存在だったんですけどね。

写真=Jリーグ JFA・Jリーグ特別選手だった05年、高校生ながらJ1第33節名古屋戦でJデビュー。「とにかくしんどかった」と振り返るが、61分まで堂々たるプレーを見せ、1-0の勝利に貢献した

 翌年の06年から正式にプロキャリアをスタートしましたが、1年目から22試合に出場することができました。もちろん途中出場も多かったですが、加入1年目には出場機会に恵まれたなかった小学校、中学校、高校とは少し違うスタートだったように思います。

 当時は世代別の日本代表にも選出されていて、すごく順調でしたね。U-19日本代表としてAFCユース選手権に出場して準優勝。07年にはFIFA U-20ワールドカップにも出場できました。世間的には“調子乗り世代”と言われ、槙野智章選手(浦和レッズ)を筆頭にかなり癖のあるチームでしたが(笑)、みんな明るくていい雰囲気でしたよ。僕自身は3試合に出場して、グループステージ第2戦のコスタリカ戦では決勝ゴールを決めました。チームとしても、すごく協調性があって練習からいい雰囲気で取り組めていたし、一戦ごとに良くなっていった。だからこそ、「もっと上まで行けた」という悔いも残っています。決勝トーナメント1回戦でPK戦の末、チェコに負けましたが、「もったいなかった」と今でも思います。

 U-20W杯が終わってから、「よし、やるぞ!」と新たな気持ちで新潟に戻ったんですが、その矢先に練習中にケガをしてしまって……。残りシーズンは試合に出ることができませんでした。ただ、そういう悔しい思いもしましたが、07年はU-20W杯に出られて様々な経験ができたし、グラフとしては「+100」。本当に充実した1年でした。

写真=YUTAKA/アフロスポーツ U-19、U-20と世代別の日本代表でも活躍。カナダで開催された07年のU-20W杯にも出場し、グループステージ第2戦のコスタリカ戦では殊勲の決勝ゴールを挙げた
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楽しみながら、常に前を向いて

写真=吉田孝光 文=小田尚史

桜の戦士たち一人ひとりにフォーカスし、そのサッカー人生の歩みを紐解いていく
ファンクラブ会報誌『TWELFTH』のウェブ限定コンテンツ「SAKURA BIOGRAPHY」。
第3回は、今シーズンHJKヘルシンキから加入した田中亜土夢が登場。
これまで歩んできたサッカー人生について、たっぷりと振り返ってもらった。
後編ではアルビレックス新潟時代や海外移籍、そして未来への思いに迫る。

田中自身が記したキャリアにおける「心の折れ線グラフ」。一度もマイナスに落ちることなく、常に楽しみながらサッカー人生を歩んでいることが分かる

#04
濃密な9シーズンを過ごした新潟時代
ターニングポイントを迎え、真のプロ選手に

 アルビレックス新潟でのプロ3年目、2008年はリーグ戦25試合に出場。充実したシーズンを送ることができました。そのためグラフ的にも07年から下がることなく、「+100」をキープしたまま。ただ、翌09年はわずか5試合の出場にとどまったので……(グラフも)下がりますよね。一気に「0」まで下がりました(苦笑)。この時期は筋トレをやり過ぎて体が重く、キレを失っていたような気がします。でも、気持ち的にはそこまで落ちませんでした。「こんなところで落ち込んでいてはダメだ!」と思っていましたから。
 
 黒崎久志さんに監督が交代した10年も、僕自身はスタメンの座を奪えませんでした。それでも、翌11年の途中からスタメンに定着。この年は、僕のプロ生活においてターニングポイントと言えるシーズンでした。「ここからがスタート。これがプロのサッカー選手だ」と、ちゃんと言えるようになったというか。それまでも試合には出ていましたが、途中出場も多かったですから。出場時間数で言えば、11年から圧倒的に増えました。

 僕が新潟に在籍した間に、監督は何度か代わりましたが、個人的にはあまり気にしていませんでした。新潟のサッカースタイルはハッキリしていたし、自分のやるべきことが大きく変わることもなかったですから。12年もシーズン途中に監督交代がありましたが、全試合に出場できました。ただ、チームとしては最後までJ1残留を争う厳しい1年でしたね。何とか持ち堪えた、そんな感じです。

 僕自身、全試合に出場した中で残留争いをしてしまったので「何とかしないといけない」という強い気持ちがありながらも、なかなかうまくいかず……。すごくもどかしい時期でした。でもラスト2試合、ベガルタ仙台とコンサドーレ札幌(現・北海道コンサドーレ札幌)に連勝して、何とか残留を決めることができました。最後のほうは、みんな「やるしかないでしょ!」と吹っ切れていたような気がします。みんなの気持ちが一つになっていたからこそ残留できたと思いますが、決まった瞬間はホントに一安心という感じでした。

写真=吉田孝光 新潟時代を振り返り、「11年がプロ人生におけるターニングポイントだった」と語る田中。同年を境にスタメンの座をつかみ、名実ともに中心選手としてチームを引っ張った

 厳しい残留争いで何とか生き残った翌13年は、7位に入りました。僕が新潟でプレーした中で一番成績が良かったシーズンです。個人としても11年から試合に出始めて、試合に臨むリズム、気持ちや体の持って行き方などが安定してきていたように思います。経験も積み重なってきていましたし、ほぼすべての試合に出場することもできて、プロ選手として濃密なシーズンになりました。

 だからこそ、このシーズンの終わりに海外移籍も考えました。レギュラーとしてプレーして3年が経ち、自信もついた頃だったし、「一度は海外でプレーしてみたい、海外で生活してみたい」という気持ちが湧いてきて。当時は「ドイツに行きたい」と考え、ドイツのクラブの練習に参加しましたが、残念ながら契約には至らず。移籍は叶いませんでした。でも、すぐに「もう1年、新潟で頑張ろう!」と気持ちは切り替えられました。

 そうして臨んだ14年、自分から希望して背番号10を着けさせてもらいました。それまで新潟では日本人で10番を背負った選手はいなかったので、すごくモチベーションになりましたね。ただ、リーグ戦33試合に出場したものの、得点は2点のみ。「10」を着けている以上は、もっともっとゴールやアシストという結果を出さないとダメだったなという悔いが少し残りました。

 新潟にはプロ入りした06年から9年間、お世話になりました。振り返ると、11年途中からは試合にもコンスタントに出られて充実していましたが、プレーしていたポジションを考えると、もっと得点を取らないといけなかったなと。当時の新潟は外国籍選手に頼りがちなところもありましたが、頑張る選手が多く、“ボールを奪ってカウンター”というスタイルが根付いていました。そこで自分がもっと結果を出していれば……とは今でも思います。あとは、やっぱり地域に密着していたクラブだったのでサポーターの方との距離が近かった。スタジアムではサポーターの皆さんが毎試合のように温かい、いい雰囲気を作ってくれて。それは本当にいい思い出です。

写真=Jリーグ 14年には自ら希望してクラブ史上初となる日本人の10番に。高いモチベーションを胸にシーズンを戦い抜いたが、個人として結果を出せなかった悔いも残った

#05
ついに実現させた海外挑戦
日本サッカー未開の地、フィンランドへ

写真=Getty Images HJKヘルシンキでも10番を背負った田中。加入1年目から2年連続でリーグベストイレブンに選ばれる活躍を見せた

 14年のシーズンを終えた後、「海外でプレーしたい」思いが強くなり、新潟を退団することを決意しました。やっぱり「一度は海外で」という気持ちを捨てることはできなくて。この時は国にこだわらず、ヨーロッパのどこかでプレーできればと考えて、いろいろな可能性を模索しました。そして最終的に選んだのが、フィンランドのHJKヘルシンキ。正直なところ「フィンランドにプロサッカーリーグってあるのかな?」というくらいサッカーの印象は薄かったんですけど、そこで二の足を踏むことは全くなかったです。

 フィンランドはとても寒い地域なので、屋内トレーニングができる環境はすごく整っていました。HJKヘルシンキでは、気温がマイナス5度を下回ると屋内練習。新潟も雪国だったので屋内のトレーニング環境はありましたが、それでもフットサルコートが1面とれるくらい。でも、HJKヘルシンキはサッカーコートが丸々1面あって、「さすがに整っているな~」と感心しましたね。

 ピッチ外に関して言えば、フィンランド人はどことなく日本人に似ていると思います。僕自身、すぐに「(性格的に)合うんじゃないかな」と感じたくらいです。だから、生活面で苦労することはあまりなかったですね。妻と一緒に移住したんですが、スーパーで買い物をする時などは商品説明がフィンランド語なので難しかったですけど、現地在住の日本人の方にいろいろと助けてもらいながら、ストレスなく暮らせました。

 HJKヘルシンキでは加入1年目から試合に出場できましたが、やっぱりフィンランドという国に早く慣れたことが、サッカーで活躍する上でも一番大きかったと思います。選手同士もコミュニケーションを図る機会が多くて、食事やサウナに出掛けたり、レクリエーションとしてゴーカートで遊んだり。HJKヘルシンキはそういう交流の場を積極的に作ってくれるクラブだったんです。あと、フィンランドでは1年間プレーしたら翌年から外国籍扱いではなくなるというルールがあったので、外国籍選手も多かった。ある試合ではフィンランド人選手が3人くらいしかいない、なんてこともありましたから(笑)。コミュニケーションは、基本的に英語でしたね。フィンランド人もみんな英語を話せるので、何とか意思疎通に困ることなくプレーできました。

 ちなみに、HJKヘルシンキでの1年目にはUEFAチャンピオンズリーグやUEFAヨーロッパリーグの予選にも出場しました。チャンピオンズリーグは予備予選で敗れましたが、その後にヨーロッパリーグのプレーオフに回って、ロシアのクラスノダールと対戦したんです。でも、相手が強くて1-5で大敗。ボコボコにやられました(苦笑)。

 加入2年目にもヨーロッパリーグの予選に出場して、加藤恒平くん(現サガン鳥栖)が所属していたブルガリアのベロエ・スタラ・ザゴラと対戦しました。日本人対決、実はこんなところでも行われていたんですよ(笑)。その日本人対決には勝ったものの、続く予備予選3回戦でスウェーデンのクラブに敗れてしまい、本大会には出場できませんでした。さらに、2年目はそのヨーロッパリーグ予選でケガをしてしまい、出場数は1年目の半分くらいに激減。チームとしても2年連続でタイトルを逃しました。

写真=Getty Images HJKヘルシンキでも10番を背負った田中。加入1年目から2年連続でリーグベストイレブンに選ばれる活躍を見せた

#06
北欧の地で手にした待望の初タイトル
次は大阪で。チャレンジは終わらない

 17年、フィンランドで迎えた3年目はリーグ戦とカップ戦で優勝して2冠。3年間で最も充実したシーズンになりました。HJKヘルシンキは、僕が加入するまで6シーズン連続で優勝していたチームだったのに、僕の加入後は2シーズン連続で無冠。正直、かなり責任を感じていて、「3年目は優勝しないとマズイな」と思っていました(笑)。僕にとっても初めてのタイトルでしたし、サッカー人生の中で最もうれしい1年になりました。きっと、日本人でフィンランドリーグ優勝を経験している選手は僕しかいないはずですしね(笑)。

 フィンランドでの3年間は、自分のキャリアにとってプラスしかなかったなと感じます。本当に様々な経験ができましたし、移籍して良かったです。できれば、チャンピオンズリーグやヨーロッパリーグにも出場してみたかったですが、そこまで強いチームではなかったので仕方ないですね。でも、グラフが示すとおり、充実度は最初からずっと高いままでした。

 振り返ってみると、フィンランド人はシャイな人が多かったですね。お酒を飲むとテンションが上がって、普段は絡んでこない選手も話し掛けてくれるんですけど、次の日はいつもどおりのシャイに戻る(笑)。でも、優しい人も多いですよ。例えば、デパートでドアを開けた時に後ろに人がいたら、その人が来るまで絶対に待ってくれますから。そういう国民性なので、ピッチ外でも困ることは少なかったですね。それに住んでいたヘルシンキはフィンランドでは一番大きな街で、日本食レストランがあったり、日本の食材も買えましたから。ただ、大きな街と言っても、スウェーデンなどの都市と比べたら地味で小さい(笑)。それがまた魅力でもあるんですけどね。

写真=AFLO HJKヘルシンキ加入3年目には、自身初タイトルを含むシーズン2冠を達成。海外挑戦を大成功で終えた

 今シーズンも、最初は引き続きヨーロッパでプレーしたい気持ちもありました。でも、うまく条件が合わず、日本に戻ってプレーすることになったんです。ただ、国内では新潟でしかプレーしたことがなかったので、「違うJクラブでプレーしてみたい」という気持ちもあって。そんな時に、セレッソから声を掛けてもらいました。

 その他にもオファーはありましたが、今シーズンのACL(AFCチャンピオンズリーグ)に出られるチャンスがあったり、様々な魅力も含めて考えて、最終的にはセレッソでプレーすることを決断しました。ただ、実際にACLでプレーするチャンスを与えてもらいましたが、思うように活躍できず……。グループステージすら突破できなかったので、現時点での充実度は低いですね。一気に「0」ゼロまで下がります。

 やっぱり新加入選手として期待されて加わったので、「もっともっと試合に出て、活躍しないといけなかった」という心残りはあります。でも、まだシーズンが終わったわけではないですからね。残りのシーズン、しっかりとピッチに立てるように努力し続けていきます。それに来シーズン以降も、一人のサッカー選手として体が動く限りプレーしたいと思っているので、ここからグラフもまたグッと上げていきたいですね。「まだまだイケる!」。そんな気持ちを持って、日々の練習に取り組んでいきます。

今シーズン、新天地に選んだのはセレッソ。しかし、加入1年目は思い描いたような活躍ができず。これからの巻き返しを心に誓っている
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