TWELFTH
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心のままに歩を進めて

写真=安田健示 文=小田尚史

桜の戦士たち一人ひとりにフォーカスし、そのサッカー人生の歩みを紐解いていく
ファンクラブ会報誌『TWELFTH』のウェブ限定コンテンツ「SAKURA BIOGRAPHY」。
第2回は、最終ラインならどこでもこなす守備のユーティリティー、田中裕介が登場。
自身が歩んできたキャリアを、充実度を示すグラフを描きながら辿ってもらった。
前編では“お山の大将”だったという幼少期から、横浜F・マリノス時代に焦点を当てる。

自身のキャリアを振り返りながら、田中自身が作り上げた充実度を示す折れ線グラフ。グラフの落差から紆余曲折ぶりが確認できる

#01
“お山の大将”なエースストライカー
グラフはずっと右肩上がり

 ボールを蹴り始めたのは、幼稚園くらいです。ちょうど僕が小学1年生の時にJリーグが開幕して、地元のチームに入って本格的にサッカーを始めました。「自然と近くにボールがあったから」という感じでスタートして、小学校の6年間はいつもボールと一緒に過ごしていたように思います。当時はヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)が強い時期で、カズさん(三浦知良選手)やラモス(瑠偉)さん、1994年のアメリカ・ワールドカップを見て、「プロサッカー選手になりたい」という気持ちが強くなっていきました。
 
 小学生の時に所属していたシルクロードSCは、東京都八王子市にある、いわゆる地域のクラブチーム。「家から近い」というシンプルな理由で入ることを決めました(笑)。自分で言うのも何ですが、当時はボールを運んで、ゴールを決めて、という感じで全部やっていました。チームのエースストライカーだったし、“お山の大将”でしたね(笑)。本当に毎日が楽しかった。小学6年時には東京都選抜にも選んでもらって、その時の監督が、中学時代にお世話になる町田JFCの監督でした。

 「プロサッカー選手になる」という気持ちは、中学進学前から固まっていました。小学校の卒業文集にも書いたくらいです。当時はイタリア・セリエAのダイジェスト番組が夜中に放送されていて、それを録画して、学校へ行く前に見るのが楽しみでした。ちょうど中田英寿さんがペルージャに移籍した頃ですね。もちろん、98年のフランスW杯もよく覚えています。決勝はテレビで生観戦しましたから。そういった刺激もあって自然とプロを目指すようになりましたが、小学校を卒業する時には子どもながらに「周りとは違う道を歩んでいるのかな」という意識がありました。

 だからというわけじゃないですが、中学ではJクラブのアカデミーに行きたい気持ちが強かったんです。でも、なかなかいいチャンスがなくて……。それなら東京都選抜の時に監督が「ウチに来ないか」と誘ってくれたし、家からも近いし、「町田JFCに行こう」と。町田JFCは“打倒、Jクラブのアカデミー”を掲げるような、様々な地域から選手が集まってくる西東京では指折りのチームでした。ただ、最初は同学年に100人くらいの選手がいるんですが、卒業する時には20人くらいしか残らない厳しいチームでもあったんです。練習はほぼ毎日。学校が終わると着替えて、リュックを背負って、バスに乗って、練習場へ行く。そんな3年間でした。

 サッカーを始めてから、充実度を示すグラフはずっと右肩上がり。ただ、中学1年の時に試合で腕を骨折して、半年くらいサッカーできなかった時期があって。その時期はさすがにグラフもマイナスまで下がりました(苦笑)。初めての大ケガだったし、手術もして、怖い思いもしましたから。でも、それ以上にサッカーができない時間が本当に苦痛でした。

写真=安田健示 幼少期や小学校時代について「毎日が楽しかった」と語る田中。チームのエースストライカーとして「全部やっていた」と当時を振り返る

 町田JFCでも、卒業するまでずっとエースストライカー。自分としては活躍できたと思っていたので、高校ではJクラブのユースに行こうと決めていましたが、セレクションを受けた横浜F・マリノスからは「身長もあるし、DFとしてなら来てもいいよ」という感じで。僕自身は「それでもいいかな」と思ったんですが、町田JFCの監督が「田中はFWだ。DFとしてなら、お断りします」みたいな感じになって、「仕方ないな」と(苦笑)。

 でも、高校サッカーにも興味はあったので、落ち込むことはなかったです。むしろ、名門の桐光学園高校に行きたいなと思っていたら、たまたま試合を見に来た桐光学園の監督から「練習に来ないか?」と誘っていただいて。実際に練習参加したら、すごく魅力を感じて、「行かせてください」と伝えました。シンプルにやっているサッカーが楽しかったし、私立高校だけあって設備もすごかった。OBには中村俊輔さん(ジュビロ磐田)もいて、僕たちの地域では有名だったし、家からも近い(笑)。進学校なので学業面の心配もないし、親も「それなら」という感じで、いろいろな意味でマッチした進学先になりました(笑)。

#02
名門校で味わった挫折と失意のコンバート
その先に待っていたプロ選手としての原点

 自分も、周囲の希望もマッチした桐光学園高校でしたが、入学直後にグラフは大きく下がります。1年時は今までやったことがないボール拾いやグラウンド整備ばかりでしたからね。プレーヤーとしても、1試合目か2試合目で「お前はサイドバックをやれ」と有無を言わさずコンバートされてしまって。今となっては“ナイス転向”なんですが、当時は受け入れられなかった。そんな様々な変化に対応できず、「転校したい」と両親に言っていた時期もあったんです。

 後から聞いた話では、桐光学園のサッカースタイルとして「サイドバックを攻撃的にプレーさせる」という方針があったようで、当時も3年生にU-18日本代表の先輩がいて、「田中も攻撃性があるからサイドバックにコンバートしてみよう」という狙いがあったらしいんです。でも、当時はそんなことは知らないから、単純にFWとして認められなかったんだと思い、「ふざけんな」って(笑)。とはいっても、サイドバックを始めてからは卒業するまで楽しんでプレーできました。高校2年になって新チームが動き出すと、すぐに左サイドバックのスタメンになって、試合にも出続けられましたしね。

 左サイドバックを任されたのは、たぶん左足も蹴れたからだと思います。もともとは右利きなんですけど、左足のキックはずっと練習していて、高校でも左サイドバックになったことでさらに練習を積みました。そういう意味では、この時が僕のプロサッカー選手としての原点と言えるかもしれませんね。

 高校3年になってからはキャプテンもやりました。チームでは不動の左サイドバックで、世代別の日本代表にも選ばれて、横浜FMの(JFA・Jリーグ)特別指定選手にもなって。ユースには入れなかったけど、結局、高校3年で横浜FMにお世話になることになり、しかもポジションはサイドバック……。高校進学前からDFでの加入を勧めてくれた横浜FMのスカウトの方は、きっとすごく見る目があったんでしょうね(笑)。そんな横浜FMの練習は本当にレベルが高かった。高校との行き来は大変でしたが、プロの練習に参加できるなんてスーパー高校生になった気分でした(笑)。でも、そのぶん学校にはあまり行けなかったので、周りからは「キャプテンなのに、練習にいないじゃん」と思われていたかもしれません。

 入学直後こそ苦しんだ高校時代ですが、結果的には本当に楽しかったです。残念だったのは、冬の(全国高校サッカー)選手権に一度も出られなかったこと。夏のインターハイには3年連続で出場できましたが、選手権の県予選では1学年下に小林悠選手(川崎フロンターレ)や太田宏介選手(FC東京)がいた麻布大学附属渕野辺高校(現・麻布大学附属高校)に負けてしまって……。ちなみに、小林選手とは町田JFCで一緒にプレーしていたので、中学時代から知っている仲なんです。

写真=桐光学園高等学校 高校時代は初めての挫折を経験。それでもサイドバック転向を機に飛躍を果たすと、3年時にはキャプテンも務めた

#03
プロの壁に直面し、どん底を経験
転機となったのは“激動のプロ2年目”

 05年、横浜FMでプロ入りしました。当時の横浜FMは03年、04年とJ1リーグを連覇していたチャンピオンチーム。練習の雰囲気から本当にすごくて、それを特別指定選手として肌で感じたことで、なおさら「入りたい」という気持ちが強くなりました。当時は久保竜彦さんがFWにいたり、本当にすごいメンバーが揃っていて、「こんなFWをどうやって止めるんだ?」というのが、僕のプロとしてのスタートでした。もちろん「やってやる!」という気持ちでプロになったんですが、加入して1~2カ月で「無理かも」って(苦笑)。7歳からサッカーを始めて、初めてガクッと気持ちが落ちた瞬間でした。

 2年目の夏くらいまでが一番キツかった。試合にも全く絡めない、練習にもついていけない、周りはみんなうまい。ケガもしていないのにサッカーで負けているという初めての感覚を味わって、グラフもどん底まで落ちました。正直、「プロとしてあと何年できるんだろう」と感じて、「プロサッカー選手、無理かもしれない」と両親に相談したくらいです。でも、そうしたら両親は「日本じゃなくても、どこかでやればいいじゃない」と言ってくれて。気持ちがすごく楽になりました。

 同期加入は今も横浜FMにいる飯倉大樹選手を含めて4人いて、みんなで励まし合いながら切磋琢磨していましたが、みんな僕よりもプロデビューが早くて、そこでも取り残された気分になりました(苦笑)。でも、2年目の夏に転機が訪れたんです。8月に監督が岡田武史さんから、水沼貴史さんに代わって。水沼さんは、僕たち若手の練習を見てくれていたコーチで、今のセレッソで言えば小菊昭雄コーチのような存在。そんな方が監督になったので、今までノーチャンスだった若手にもチャンスが来る可能性が高くなった。そして、天皇杯4回戦の愛媛FC戦。初めて公式戦で使ってもらったんです。デビュー戦のことは今でも覚えています。めちゃくちゃうれしかったですからね、「やっと出られた」って(笑)。

 水沼さんは、僕にとって恩師です。もちろん、岡田さんから学んだこともたくさんありますが、水沼さんは自分をプロの舞台に立たせてくれた方。コーチの頃から「そんなんじゃ試合に出られないぞ!」、「もっとやれ!」と厳しく接してくれて。そんなふうに言ってくれたのは、あの人が初めてでした。今、セレッソで宏太と一緒にプレーしていますが、きっとこれも何かの縁ですね。縁と言えば、岡田さんとも僕が試合に出始めた23歳頃にお会いして、一言、「成長したな」と言っていただきました。心のどこかで認めてもらいたい気持ちがあったので、あの時はすごくうれしかったです。

写真=Jリーグ 05年に横浜FMでプロキャリアをスタート。当初はプロの壁に苦しんだが、監督が交代した2年目に待望のデビューを果たした

 Jリーグデビューは、プロ2年目の最後。チームの順位がほぼ確定していて、「残りの試合は若手でいこう」という雰囲気になり、残りのリーグ戦と天皇杯で起用してもらいました。この時に初めて、「プロとしてやっていけるかも」と思いました。打ちのめされた気持ちからリーグ戦デビューに至るまで、プロ2年目は本当に“激動の1年”でしたが、この年を境に少しずつ試合に出られるようになり、スタメンを張るようになり、北京オリンピック日本代表メンバーの最終選考にも残れた。ケガもあって、最終的にはメンバーから漏れましたが、プロとして1試合ごとに自信をつけていった期間だったように思います。

 プロ4年目の08年は初めてシーズンを通じてフル稼働しました。(プロとして独り立ちできたのは)監督が信頼して使ってくれたのが大きかったです。試合に出始めた頃はミスも多かったけど、当時の監督だった桑原隆さんが我慢して使ってくれて。そのぶん「やらないといけない」という気持ちにもなりました。09年あたりからは余裕も生まれてきて、初めて右サイドバックを任されましたが、ほとんどフルシーズンを戦うことができました。そうやって2年間、1週間や中2・3日で試合をするローテーションを戦い抜いたことで、体の作り方や試合への準備など、サッカー選手として生きていく手応えをつかめたと思います。

 再び転機が訪れたのは2010年。夏にケガをして、2カ月ほど離脱しました。シーズン終盤には復帰して試合にも出ましたが、だんだん横浜FMでの自分に対して伸びしろを感じることができなくなっていたんです。クラブもベテラン選手を大量に戦力外にしたり、大きく揺れている時期でもありました。もちろん悩みましたが、混乱の中でプレーするよりも新しいところでチャレンジしたいという気持ちが強くなり、ちょうど契約が切れるタイミングだったこともあって、この年のオフに川崎フロンターレへの移籍を決断したんです。

 ただ、今振り返っても「プロキャリアのスタートが横浜FMで良かった」というのが純粋な思いです。やっぱり大きなクラブですし、いつもプレッシャーはありました。スタメンを取った時も「変なプレーはできないぞ」という気持ちが常にあったし、満足できた試合はほとんどなかったですからね。それにDF陣には当時の日本代表で活躍していた中澤佑二選手などがいて、その中で競争を勝ち抜かないといけなかった。求められるハードルはすごく高かったけど、そのぶん本当に選手として成長させてもらったクラブだと感謝しています。

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心のままに歩を進めて

写真=安田健示 文=小田尚史

桜の戦士たち一人ひとりにフォーカスし、そのサッカー人生の歩みを紐解いていく
ファンクラブ会報誌『TWELFTH』のウェブ限定コンテンツ「SAKURA BIOGRAPHY」。
第2回は、最終ラインならどこでもこなす守備のユーティリティー、田中裕介が登場。
後編では、川崎フロンターレへの禁断の移籍(?)や海外挑戦の経緯、
セレッソを選んだ理由、そして目指すべき“今後”について語ってもらった。

当時の心境を思い出しながら、田中自身が書き上げたサッカー人生の折れ線グラフ。キャリア後半はずっと右肩上がりの充実した日々を送っていることが窺える

#04
攻撃的なサッカーを求めて川崎Fへ
やりがいのある幸せな4年間を過ごす

 2011年、川崎フロンターレへ移籍しましたが、実はもう1チーム選択肢があって、最初はそちらにほぼ決まっていたんです。でも、最後の最後で川崎Fから話をいただいて、迷った末に川崎Fへの移籍を決めました。僕にとっては、すごく大きな決断でした。横浜F・マリノスから川崎Fという(神奈川県内での)移籍は、サポーターもザワつかせたというか……(苦笑)。まあでも、僕が移籍する1年前に先輩のコミ(小宮山尊信氏)が全く同じ道を歩んでいたので、大体そんな感じになるだろうなと予測はできていたんですけどね(笑)。川崎Fでは、コミが左サイドバックで、僕が右サイドバック。横浜FMからしたら、2年連続でサイドバックが、しかも隣のクラブに移籍……とネタにもなりました(苦笑)。

 川崎Fに移籍した理由の一つは、攻撃的なチームだということ。横浜FMはどちらかと言うと守備的なチームで、攻撃に関しては物足りなさを感じていたので、「攻撃的なチームに行きたい」という思いが移籍を決断した決め手でした。移籍自体が初めてだったので、「どんな感じかな?」という思いはありましたが、チームに馴染むことに不安はなかったです。当時の川崎Fで知っていたのは、町田JFCで一緒にプレーした小林悠選手と、同じタイミングで横浜FMから移籍した山瀬功治選手(アビスパ福岡)くらいでしたが、新しい環境、新しいグループに入っていくことで人間としても成長させてもらったと思います。

 川崎Fに加入してからは右サイドバックとして固定され、4年間プレーしました。横浜FM時代の09年は右、10年は左、川崎Fに移籍してまた右と、本当に行ったり来たりでしたね(笑)。当時の川崎Fは、森勇介さんが抜けたことで、右サイドバックの本職は僕しかいませんでした。「自分がやらないといけない」という感じでしたが、もともとフル稼働するつもりで腹をくくって川崎Fに加入したので、すごくやりがいを感じていました。

写真=安田健示 川崎Fへの移籍について「攻撃的なチームに行きたい思いがあった」と理由を明かした田中。4年間、右サイドバックとしてフル稼働し、「すごくやりがいがあった」という

 川崎Fでの1年目の監督は、相馬直樹さん(FC町田ゼルビア監督)。真面目で、本当にサッカーが好きな熱血監督でした。(サイドバックの大先輩として)アドバイスも数多くもらいましたし、クロスの蹴り方なども教えてもらったことを覚えています。見本も見せてくれましたが、本当にうまかった。やっぱり日本代表でバリバリやってきた人は違うなと感じましたね。

 2年目には風間八宏さん(名古屋グランパス監督)が監督になりました。最初の印象としては、「解説者が来た!」という感じ(笑)。監督就任前は、大学で指導していたという情報しかなかったので、正直「どんなサッカーをするんだろう?」と思っていましたが、今まで持っていた自分のサッカーに対する概念がガラッと変わりました。それまでも何人もの監督のもとでプレーしていましたけど、風間さんの考え方は本当に衝撃的でしたから。

 監督にはそれぞれ哲学がありますが、風間さんはもう“攻撃”という一点(笑)。その徹底ぶりは図抜けていました。普通は攻撃と守備、両方のプレーについて話すじゃないですか。でも、風間さんは攻撃のことしか言わなかった。練習も、攻撃の練習しかしない。でも、ハッキリとした指標を打ち出してくれたことで、みんなもそこに向かって行きやすかったし、メッセージ性が強い監督でした。今思い返しても、攻撃のことを言われ続けた3年間で、ディフェンスについて言われたのは「個で守れ」と「ファーサイドの選手は面になれ。全体が見えるから」ということくらい。ディフェンスに関して、選手間で話し合うこともほとんどなかったです(笑)。

 今はどういった指導をされているのか分かりませんが、当時はチームを作っていく上で“攻撃”という指標を徹底されていました。その中で、自分が日々うまくなっていく実感もありましたね。「プロになっても、うまくなるんだ」と改めて感じられたのは新鮮だった。子どもの頃、徐々にうまくなっていく感覚ってあるじゃないですか。それと同じような成長曲線を、プロでも描けた。個人技術が上がっていくのが実感として分かりましたからね。トラップ、キック、パス……。本当に練習からすべてにこだわって取り組んでいました。

写真=Jリーグ 川崎F加入2年目から指揮を執った風間監督の考え方に当初は衝撃を受けたが、その攻撃に特化した哲学のもとで自らが成長していることを実感。充実の日々を送った

 川崎Fで一番印象深いのは、やっぱりJ1リーグで3位になった13年。この年は副キャプテンを任されました。ケガを抱えながらのシーズンでもあったのですが、「やらないといけない」という責任感もありましたし、右サイドバックの控えもいなかったので、休むに休めなかった。痛みに堪えながらプレーしていたことを覚えています。そうしたら、その反動で翌年は動けなくなってしまい……。試合には出ていましたが、納得できるパフォーマンスができない1年になってしまいました。でも、今思えば、その苦しさも一つのいい経験だったと思います。

 チームとしては、川崎Fではほとんどの試合で相手を圧倒できました。勝つことを前提に、どうやって点を取るかをみんなで話し合っていたくらいですからね。特にホームでは、よりそういった雰囲気になっていたと思います。相手が守ってくることは分かっていたので、その守備網をどう崩すか。そこを突き詰めた日々でした。

 同じサイドバックでも、横浜FM時代とは求められるプレーも全く違いました。当時の川崎Fには左サイドにレナトというドリブルがうまいブラジル人選手がいて、右サイドはゲームを作る役割を求められました。右でゲームを組み立てつつ、いかに早く左サイドのレナトにボールを預けるか、という戦術だったんです。その戦い方が13年の途中から機能して、僕自身も川崎Fの攻撃的なサッカーを担っているという自負を持っていました。そうやって「攻撃的なサッカーがしたい」という移籍前の願いも叶ったことを考えても、川崎Fに移籍して本当に良かったと思います。サポーターの皆さんが作る等々力(陸上競技場)の雰囲気も素晴らしかったし、試合をしていても楽しかった。すごく幸せな4年間を過ごさせてもらいました。

写真=Jリーグ 川崎F加入2年目から指揮を執った風間監督の考え方に当初は衝撃を受けたが、その攻撃に特化した哲学のもとで自らが成長していることを実感。充実の日々を送った

#05
環境を変えるべく海外挑戦
半年という短期間ながらも貴重な時間に

 川崎Fでの4年目が終わり、個人的としてはちょうどプロ10年目のシーズンを終えた14年。J1で通算200試合に出場することもでき、自分の中である程度、やり切った気持ちがあったことから、「環境を変えたい」という思いが沸いてきました。

 ただ、他のJクラブには行く気になれず、まずはヨーロッパでチャレンジしようと移籍先を探しましたが、うまくいかず。次の優先順位として、ACL(AFCチャンピオンズリーグ)に出ること、英語圏の国で生活したいという気持ちがありました。そこで候補になったのがウェスタン・シドニーだったんです。14年のACLで対戦した際、クラブ関係者が僕のプレーを見てくれていて、(移籍したいと)話を持ち掛けたら、「15年もACLに出るぞ」と。「僕もそれに参加したい」と思いを伝えたら、翌年1月に移籍が決まったんです。

 ウェスタン・シドニーでは試合にも出られましたし、半年間、とても充実していました。レベル的にはJリーグのほうが高く、物足りなさを感じることもありましたが、ACLで鹿島アントラーズと対戦した時、勝ったのはウェスタン・シドニーだった。正直、10回対戦したら7回は鹿島が勝つくらいのチームレベルでしたが、結果的には僕たちが勝った。その時に日本が一発勝負であまり勝てない理由が、少し分かったような気がしました。

 日本はサッカーの内容にもこだわるけど、オーストラリアは全くこだわらない。サッカー自体が大味だし、細かいことを気にせず、「勝てばいい」という空気があります。でも、日本では試合内容がうまくいっていないと「ヤバイのでは?」という雰囲気になるし、その空気感が失点につながることもある。それが良い悪いではなく、オーストラリアでは簡単に言うと、「内容はどうでもいいでしょ」という感じで結果が最優先なんです。それは海外に出たからこそ感じたことでした。

 ピッチ外に関して言えば、クラブスタッフも、記者などのメディアも、メディカル面も日本のほうが充実していますし、環境としては日本のほうが整っています。でも、その限られた環境の中でプレーしたオースラリアでの半年間は、それまでの自分のプロサッカー人生を振り返るいい時間になりました。例えば、ウェスタン・シドニーにも若手はいて、充実しているとは言えない環境の中でも頑張っている。そういう姿を見ると「自分が歩んできたキャリアは恵まれていたんだな」と感じたし、「もっとやらないといけない」と思わされましたからね。

 ちなみに、ウェスタン・シドニーには髙萩洋次郎選手(FC東京)と同じタイミングで加入しました。同じ年だったので、仲良くなって二人三脚で取り組めたのもいい思い出です。ウェスタン・シドニーとの契約は半年間だったので、ACLが終わった後、9月からの新シーズンに向けてクラブと話し合いましたが、条件面や考えていることが折り合わなかった。そこでもう一度、海外を中心に移籍先を探しましたが、なかなかいい話がなかったこともあり、「日本で頑張ろう」と帰国することを決めました。

写真=getty images プロ10年目の節目を終え、新たな刺激を求めて海外挑戦を決断。半年という短期間だったが、それまでのキャリアを振り返る大事な時間にもなった

#06
直感を信じてセレッソへの移籍を決断
次なる目標は未経験のリーグ優勝

 帰国するにあたって、J1の2クラブ、J2もセレッソを含めた2クラブからオファーをいただきました。その中で、僕は少し先を見たんです。当時、声を掛けてもらったJ1のクラブよりも、セレッソでJ1に上がったほうがJ1でも上位争いできるんじゃないかと。昇格した時のパワーだったり、自分がやりたいサッカーを実現できる可能性を考えても、セレッソに行きべきじゃないかと思ったんです。もちろん、オファーをいただいたクラブそれぞれに魅力がありましたが、最後は直感で決めました。

 サッカー以外にも、単純に「大阪に住んでみたい」という気持ちもありました。それに「J1に上げる」、「J1で上位争いをする」というモチベーションもあったし、セレッソがまだタイトルを獲っていなかったことも、僕にとってはモチベーションになりました。結果、(シーズン途中に加入した)15年はJ1に上がれませんでしたけど、16年に昇格できたのは大きかったですね。そして、昨シーズンはタイトルも獲れた。僕自身としても、15年の夏に「セレッソに行く」と決めた自分の直感が正しかった、読みどおりだったなと再確認できました(笑)。

 まだセレッソ歴は浅いですが、このチームに来ることができて、クラブ初となるタイトルも獲れて本当に良かったです。しかも、2冠を達成した昨シーズンのカップ戦では全試合でメンバーに入れて、出た試合ではほぼ勝てた。それが優勝につながったので、喜びもひとしおでした。「今後」という意味では、やっぱりまだ獲ったことがないリーグ優勝を経験したい。それをセレッソで実現できれば最高ですね。

「直感で決めた」セレッソへの移籍は、読みどおり(?)大成功。昨シーズンは、2冠を達成したカップ戦全試合でメンバー入りした

 僕自身としては、セレッソが在籍4クラブ目になりますが、これまで所属したチームと比べてもセレッソは本当にいいチームだと感じますし、若手にもいい選手が多く、可能性があるチームだなと思います。僕の年上にはモニさん(茂庭照幸)やシャケさん(酒本憲幸)がいますが、僕もベテランという立ち位置になっていると思うので、これまでの経験も含めて、自分が持っているいいモノをどんどんチームに還元できればなと。そういった気持ちで今はプレーしています。

 今までこれだけ深くキャリアを振り返ったことはなかったですが、振り返ってみると、充実度が大きく下がったのはプロ入りした直後くらい。試合に出る、出ないはその時々でありましたけど、大きなケガをしたことがないのが大きいと思います。今までオペは一度もしていないし、全治8カ月や9カ月といった大ケガもしていません。丈夫な体に育ててくれた両親に感謝しないといけませんね。もちろん、サッカーを始めた頃から食事にはこだわっていましたし、親からも「たくさん食べなさい」、「牛乳は飲みなさい」、「夜更かしはしない」と口酸っぱく言われていました。そういう教えがあって、身長も伸びたし、体もしっかり作ることができたのかなと思うので、やっぱり……両親に感謝ですね(笑)。

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取材協力店
ボガーツカフェ 大阪堂島店

住所:〒553-0003
大阪市福島区福島1-1-12
堂島リバーフォーラム1階 WATERFRONT DOJIMA
電話:06-7664-9600
営業時間:8:30~20:30(L.O.)
定休日:不定休
HP:http://www.bogartshawaii.com/jp/

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