TWELFTH
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心のままに歩を進めて

写真=安田健示 文=小田尚史

桜の戦士たち一人ひとりにフォーカスし、そのサッカー人生の歩みを紐解いていく
ファンクラブ会報誌『TWELFTH』のウェブ限定コンテンツ「SAKURA BIOGRAPHY」。
第2回は、最終ラインならどこでもこなす守備のユーティリティー、田中裕介が登場。
自身が歩んできたキャリアを、充実度を示すグラフを描きながら辿ってもらった。
前編では“お山の大将”だったという幼少期から、横浜F・マリノス時代に焦点を当てる。

自身のキャリアを振り返りながら、田中自身が作り上げた充実度を示す折れ線グラフ。グラフの落差から紆余曲折ぶりが確認できる

#01
“お山の大将”なエースストライカー
グラフはずっと右肩上がり

 ボールを蹴り始めたのは、幼稚園くらいです。ちょうど僕が小学1年生の時にJリーグが開幕して、地元のチームに入って本格的にサッカーを始めました。「自然と近くにボールがあったから」という感じでスタートして、小学校の6年間はいつもボールと一緒に過ごしていたように思います。当時はヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)が強い時期で、カズさん(三浦知良選手)やラモス(瑠偉)さん、1994年のアメリカ・ワールドカップを見て、「プロサッカー選手になりたい」という気持ちが強くなっていきました。
 
 小学生の時に所属していたシルクロードSCは、東京都八王子市にある、いわゆる地域のクラブチーム。「家から近い」というシンプルな理由で入ることを決めました(笑)。自分で言うのも何ですが、当時はボールを運んで、ゴールを決めて、という感じで全部やっていました。チームのエースストライカーだったし、“お山の大将”でしたね(笑)。本当に毎日が楽しかった。小学6年時には東京都選抜にも選んでもらって、その時の監督が、中学時代にお世話になる町田JFCの監督でした。

 「プロサッカー選手になる」という気持ちは、中学進学前から固まっていました。小学校の卒業文集にも書いたくらいです。当時はイタリア・セリエAのダイジェスト番組が夜中に放送されていて、それを録画して、学校へ行く前に見るのが楽しみでした。ちょうど中田英寿さんがペルージャに移籍した頃ですね。もちろん、98年のフランスW杯もよく覚えています。決勝はテレビで生観戦しましたから。そういった刺激もあって自然とプロを目指すようになりましたが、小学校を卒業する時には子どもながらに「周りとは違う道を歩んでいるのかな」という意識がありました。

 だからというわけじゃないですが、中学ではJクラブのアカデミーに行きたい気持ちが強かったんです。でも、なかなかいいチャンスがなくて……。それなら東京都選抜の時に監督が「ウチに来ないか」と誘ってくれたし、家からも近いし、「町田JFCに行こう」と。町田JFCは“打倒、Jクラブのアカデミー”を掲げるような、様々な地域から選手が集まってくる西東京では指折りのチームでした。ただ、最初は同学年に100人くらいの選手がいるんですが、卒業する時には20人くらいしか残らない厳しいチームでもあったんです。練習はほぼ毎日。学校が終わると着替えて、リュックを背負って、バスに乗って、練習場へ行く。そんな3年間でした。

 サッカーを始めてから、充実度を示すグラフはずっと右肩上がり。ただ、中学1年の時に試合で腕を骨折して、半年くらいサッカーできなかった時期があって。その時期はさすがにグラフもマイナスまで下がりました(苦笑)。初めての大ケガだったし、手術もして、怖い思いもしましたから。でも、それ以上にサッカーができない時間が本当に苦痛でした。

写真=安田健示 幼少期や小学校時代について「毎日が楽しかった」と語る田中。チームのエースストライカーとして「全部やっていた」と当時を振り返る

 町田JFCでも、卒業するまでずっとエースストライカー。自分としては活躍できたと思っていたので、高校ではJクラブのユースに行こうと決めていましたが、セレクションを受けた横浜F・マリノスからは「身長もあるし、DFとしてなら来てもいいよ」という感じで。僕自身は「それでもいいかな」と思ったんですが、町田JFCの監督が「田中はFWだ。DFとしてなら、お断りします」みたいな感じになって、「仕方ないな」と(苦笑)。

 でも、高校サッカーにも興味はあったので、落ち込むことはなかったです。むしろ、名門の桐光学園高校に行きたいなと思っていたら、たまたま試合を見に来た桐光学園の監督から「練習に来ないか?」と誘っていただいて。実際に練習参加したら、すごく魅力を感じて、「行かせてください」と伝えました。シンプルにやっているサッカーが楽しかったし、私立高校だけあって設備もすごかった。OBには中村俊輔さん(ジュビロ磐田)もいて、僕たちの地域では有名だったし、家からも近い(笑)。進学校なので学業面の心配もないし、親も「それなら」という感じで、いろいろな意味でマッチした進学先になりました(笑)。

#02
名門校で味わった挫折と失意のコンバート
その先に待っていたプロ選手としての原点

 自分も、周囲の希望もマッチした桐光学園高校でしたが、入学直後にグラフは大きく下がります。1年時は今までやったことがないボール拾いやグラウンド整備ばかりでしたからね。プレーヤーとしても、1試合目か2試合目で「お前はサイドバックをやれ」と有無を言わさずコンバートされてしまって。今となっては“ナイス転向”なんですが、当時は受け入れられなかった。そんな様々な変化に対応できず、「転校したい」と両親に言っていた時期もあったんです。

 後から聞いた話では、桐光学園のサッカースタイルとして「サイドバックを攻撃的にプレーさせる」という方針があったようで、当時も3年生にU-18日本代表の先輩がいて、「田中も攻撃性があるからサイドバックにコンバートしてみよう」という狙いがあったらしいんです。でも、当時はそんなことは知らないから、単純にFWとして認められなかったんだと思い、「ふざけんな」って(笑)。とはいっても、サイドバックを始めてからは卒業するまで楽しんでプレーできました。高校2年になって新チームが動き出すと、すぐに左サイドバックのスタメンになって、試合にも出続けられましたしね。

 左サイドバックを任されたのは、たぶん左足も蹴れたからだと思います。もともとは右利きなんですけど、左足のキックはずっと練習していて、高校でも左サイドバックになったことでさらに練習を積みました。そういう意味では、この時が僕のプロサッカー選手としての原点と言えるかもしれませんね。

 高校3年になってからはキャプテンもやりました。チームでは不動の左サイドバックで、世代別の日本代表にも選ばれて、横浜FMの(JFA・Jリーグ)特別指定選手にもなって。ユースには入れなかったけど、結局、高校3年で横浜FMにお世話になることになり、しかもポジションはサイドバック……。高校進学前からDFでの加入を勧めてくれた横浜FMのスカウトの方は、きっとすごく見る目があったんでしょうね(笑)。そんな横浜FMの練習は本当にレベルが高かった。高校との行き来は大変でしたが、プロの練習に参加できるなんてスーパー高校生になった気分でした(笑)。でも、そのぶん学校にはあまり行けなかったので、周りからは「キャプテンなのに、練習にいないじゃん」と思われていたかもしれません。

 入学直後こそ苦しんだ高校時代ですが、結果的には本当に楽しかったです。残念だったのは、冬の(全国高校サッカー)選手権に一度も出られなかったこと。夏のインターハイには3年連続で出場できましたが、選手権の県予選では1学年下に小林悠選手(川崎フロンターレ)や太田宏介選手(FC東京)がいた麻布大学附属渕野辺高校(現・麻布大学附属高校)に負けてしまって……。ちなみに、小林選手とは町田JFCで一緒にプレーしていたので、中学時代から知っている仲なんです。

写真=桐光学園高等学校 高校時代は初めての挫折を経験。それでもサイドバック転向を機に飛躍を果たすと、3年時にはキャプテンも務めた

#03
プロの壁に直面し、どん底を経験
転機となったのは“激動のプロ2年目”

 05年、横浜FMでプロ入りしました。当時の横浜FMは03年、04年とJ1リーグを連覇していたチャンピオンチーム。練習の雰囲気から本当にすごくて、それを特別指定選手として肌で感じたことで、なおさら「入りたい」という気持ちが強くなりました。当時は久保竜彦さんがFWにいたり、本当にすごいメンバーが揃っていて、「こんなFWをどうやって止めるんだ?」というのが、僕のプロとしてのスタートでした。もちろん「やってやる!」という気持ちでプロになったんですが、加入して1~2カ月で「無理かも」って(苦笑)。7歳からサッカーを始めて、初めてガクッと気持ちが落ちた瞬間でした。

 2年目の夏くらいまでが一番キツかった。試合にも全く絡めない、練習にもついていけない、周りはみんなうまい。ケガもしていないのにサッカーで負けているという初めての感覚を味わって、グラフもどん底まで落ちました。正直、「プロとしてあと何年できるんだろう」と感じて、「プロサッカー選手、無理かもしれない」と両親に相談したくらいです。でも、そうしたら両親は「日本じゃなくても、どこかでやればいいじゃない」と言ってくれて。気持ちがすごく楽になりました。

 同期加入は今も横浜FMにいる飯倉大樹選手を含めて4人いて、みんなで励まし合いながら切磋琢磨していましたが、みんな僕よりもプロデビューが早くて、そこでも取り残された気分になりました(苦笑)。でも、2年目の夏に転機が訪れたんです。8月に監督が岡田武史さんから、水沼貴史さんに代わって。水沼さんは、僕たち若手の練習を見てくれていたコーチで、今のセレッソで言えば小菊昭雄コーチのような存在。そんな方が監督になったので、今までノーチャンスだった若手にもチャンスが来る可能性が高くなった。そして、天皇杯4回戦の愛媛FC戦。初めて公式戦で使ってもらったんです。デビュー戦のことは今でも覚えています。めちゃくちゃうれしかったですからね、「やっと出られた」って(笑)。

 水沼さんは、僕にとって恩師です。もちろん、岡田さんから学んだこともたくさんありますが、水沼さんは自分をプロの舞台に立たせてくれた方。コーチの頃から「そんなんじゃ試合に出られないぞ!」、「もっとやれ!」と厳しく接してくれて。そんなふうに言ってくれたのは、あの人が初めてでした。今、セレッソで宏太と一緒にプレーしていますが、きっとこれも何かの縁ですね。縁と言えば、岡田さんとも僕が試合に出始めた23歳頃にお会いして、一言、「成長したな」と言っていただきました。心のどこかで認めてもらいたい気持ちがあったので、あの時はすごくうれしかったです。

写真=Jリーグ 05年に横浜FMでプロキャリアをスタート。当初はプロの壁に苦しんだが、監督が交代した2年目に待望のデビューを果たした

 Jリーグデビューは、プロ2年目の最後。チームの順位がほぼ確定していて、「残りの試合は若手でいこう」という雰囲気になり、残りのリーグ戦と天皇杯で起用してもらいました。この時に初めて、「プロとしてやっていけるかも」と思いました。打ちのめされた気持ちからリーグ戦デビューに至るまで、プロ2年目は本当に“激動の1年”でしたが、この年を境に少しずつ試合に出られるようになり、スタメンを張るようになり、北京オリンピック日本代表メンバーの最終選考にも残れた。ケガもあって、最終的にはメンバーから漏れましたが、プロとして1試合ごとに自信をつけていった期間だったように思います。

 プロ4年目の08年は初めてシーズンを通じてフル稼働しました。(プロとして独り立ちできたのは)監督が信頼して使ってくれたのが大きかったです。試合に出始めた頃はミスも多かったけど、当時の監督だった桑原隆さんが我慢して使ってくれて。そのぶん「やらないといけない」という気持ちにもなりました。09年あたりからは余裕も生まれてきて、初めて右サイドバックを任されましたが、ほとんどフルシーズンを戦うことができました。そうやって2年間、1週間や中2・3日で試合をするローテーションを戦い抜いたことで、体の作り方や試合への準備など、サッカー選手として生きていく手応えをつかめたと思います。

 再び転機が訪れたのは2010年。夏にケガをして、2カ月ほど離脱しました。シーズン終盤には復帰して試合にも出ましたが、だんだん横浜FMでの自分に対して伸びしろを感じることができなくなっていたんです。クラブもベテラン選手を大量に戦力外にしたり、大きく揺れている時期でもありました。もちろん悩みましたが、混乱の中でプレーするよりも新しいところでチャレンジしたいという気持ちが強くなり、ちょうど契約が切れるタイミングだったこともあって、この年のオフに川崎フロンターレへの移籍を決断したんです。

 ただ、今振り返っても「プロキャリアのスタートが横浜FMで良かった」というのが純粋な思いです。やっぱり大きなクラブですし、いつもプレッシャーはありました。スタメンを取った時も「変なプレーはできないぞ」という気持ちが常にあったし、満足できた試合はほとんどなかったですからね。それにDF陣には当時の日本代表で活躍していた中澤佑二選手などがいて、その中で競争を勝ち抜かないといけなかった。求められるハードルはすごく高かったけど、そのぶん本当に選手として成長させてもらったクラブだと感謝しています。

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