TWELFTH
cover image cover image

波乱万丈。歓喜と失意に満ちた激闘譜

写真=安田健示 文=小田尚史

桜の戦士たち一人ひとりにフォーカスし、そのサッカー人生の歩みを紐解いていく
ファンクラブ会報誌『TWELFTH』のウェブ限定コンテンツ「SAKURA BIOGRAPHY」。
第1回は、チーム最年長の頼れる兄貴分、茂庭照幸が登場。
紆余曲折のフットボールライフを心の充実度を表すグラフとともに、振り返ってもらった。
前編ではキャリアの前半、サッカーとの出会い、そして自ら語る「絶頂期」に迫る。

※グラフは画像を左右にスライドさせて表示することができます。
茂庭が自ら記してくれたサッカーキャリア折れ線グラフ。浮き沈みの激しい波乱のサッカー人生であることが一目で見て取れる

#01
名門チームでFWとしてゴールを量産
センターバックへのコンバート理由はキック力?

 サッカーを始めたのは小学3年生から。近所に住んでいた一つ上のお兄ちゃんたちとよくキックベースをやっていたんですけど、学校が終わってキックベースをした後、どこかに行くから「どこに行くの?」と聞いたら、「サッカー」だと。「じゃあ、僕も行く!」と遊びの延長で、安易な気持ちでついて行ったのがサッカーとの出会いでしたが、エグイほどスパルタなチームでした(苦笑)。

 ボールを蹴る前に、とにかく走らされました。初めて練習に行った時は「絶対、明日は行かない」、「3日で辞めよう」と思っていたんです。それくらい本当に走りがキツかったから、グラフの充実度も最初は右肩下がり(笑)。でも、家族のサポートもあって何とか続けていくことができました。小学5年と小学6年でグラフが上がっているのは、全国大会に出場してサッカーが楽しくなってきたから。所属していた厚木ゴールプランダーズは、サッカーをやっていれば神奈川県では知らない人はいないくらいの超名門チームで、めちゃくちゃ強かったんです。うまいヤツも多くて、試合ではほとんど負けなかった。俺は初心者でしたけど、デカくて、足も速かったから、FWとしてゴール前に立っていたら1試合で10点くらい取れちゃうような感じでした。小学生の頃は、どんなスポーツをやっても結構できていたし、運動神経は悪くなかったと思います。

 現在の本職であるセンターバックにコンバートされたのは、小学6年の時。県予選が終わって全国大会に出る前でした。理由ですか? 「5年生に双子のすごいヤツがいる」とチームで話題になって、その双子がMFとFWだったんです。それで「お前、どうする?」と監督に聞かれて「FWで出られなくなりますね」と答えたら、「お前は下手くそだから、守っておけ」って(笑)。「ボールが来たら、思い切り外へ蹴れ!」みたいな感じて言われたんです。当時はセンターバックをやったこともなかったから、最初は本当に来たボールを思い切り外へ蹴り出していました。

 ある時、4面くらい作れるコートで大会があったんですけど、俺がクリアしたボールが一番端のコートまで横断しちゃって。小学生にしてはキック力がすごくあったんですよ。小学生の試合にはボールボーイなんていないじゃないですか。だから、めちゃくちゃ強い相手に1-0で勝っている時とかは「とにかく思い切り外へ蹴り出せ!」って指示がめっちゃあって(苦笑)。当時、試合は15分ハーフだったんですけど、ボールが外に出て、戻ってくるまでに時間が掛かるから、それだけで結構時間が稼げた。予選を突破するために、「このチームには負けられない」という試合では、攻撃せずに俺のところにボールが集まってきましたからね。で、どんどんボールを外に蹴り出すことを繰り返していたら、プレー時間が5分くらい、なんて試合もありました(笑)。

 そこからポジションはずっとセンターバックです。あっ、一度プロになって、あの加地(亮氏/FC東京時代のチームメート)から右サイドバックのポジションを奪ったなんてこともありましたけどね(笑)。

写真=安田健示 幼少期について笑顔で振り返る茂庭。サッカーを始めた当初は、初心者ながらFWとしてゴールを量産していたという

#02
ベルマーレ育成組織で充実の6年間を送るも
充実度「100」の直後に待ち受けていた失意

写真=Jリーグ アカデミー時代を過ごしたベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)でメキメキと力をつけ、高校3年生にしてプロデビュー。年代別代表にも名を連ねた

 中学からはベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)のジュニアユースに入りました。小学生時にプレーしていたチームが神奈川県でもダントツに強いチームだったので、何人もの選手がJクラブのアカデミーや強豪校に進む中、俺にもチャンスが来て。「お前、どうする?」と聞かれて、当時はJリーグができて間もなくて、俺自身も憧れがあったから「練習参加したいです!」と伝えたことが始まりでした。ただ、ベルマーレのジュニアユースに入った当初は、正直プロになることは全く考えていなかったんです。小学生の時も県選抜や関東選抜とは無縁だったし、自分がどれほどの実力かも分からないような感じでしたからね。

 「入れるなら、行きます」みたいな感じで加入したベルマーレでしたが……そこからは充実の6年間でした。ジュニアユースでも、ユースでも、仲間や指導者に恵まれて、チームとしても、個人としてもどんどんうまくなっていく実感がありましたから。サッカーに関しては、ほぼいい思い出しかありません。当時のベルマーレは、とにかく自由奔放なチーム。ロン毛のサーファーみたいなヤツも多かったですよ(笑)。メッシュを入れているヤツもいて、練習の時だけ(髪が)黒くなるスプレーをかけて、練習が終わってシャワーを浴びて、帽子を被って帰るような感じでした(笑)。本当に毎日がめちゃくちゃ楽しくて、グラフもどんどん右肩上がりになっていった6年間でしたね。

 俺自身もメキメキ上達して、高校1年の春には高校3年の試合に出るようになり、その頃から自分の中で「プロに行けるぞ」と思い始めました。高校1年の夏あたりからは、当時サテライトと言われていたトップチーム(の2軍)で練習していましたしね。俺以外にもそういう選手が何人かいて、U-21という括りのチームも作られ、練習時間も俺たち高校に合わせて18時半から始まることもありました。

 そして高校3年の時、17歳でトップチームデビューを果たしました。当時の思い出と言えば、俺が高校3年になる前、ペルージャに移籍する前のヒデさん(中田英寿氏)と2人組で練習したこと。5~10メートル離れた位置でインサイドパスを交換する練習だったんですけど、ヒデさんのパススピードが速過ぎて、誰も止められなくて。他の選手たちはヒデさんと組みたがらなかったんですよ(苦笑)。当時のヒデさんは平塚を飛び越えて世界しか見ていなかったから。「じゃあ、誰が組むか」となると、一番下っ端の俺しかいなかった(笑)。その後、日本代表で再会することになったんですけど、当時、高校生の俺とパス交換をしていたことなんて、たぶんヒデさんは覚えていないでしょうね。

 その後、初めてキャリアグラフがMAXの「100」になったのは、プロ2年目の2001年。ワールドユース(現U-20ワールドカップ)のU-20日本代表に選ばれた時です。ただ、試合3日前にケガをしてしまい、帰国を余儀なくされました。アルゼンチンから日本に着いてMRIを撮り、「肉離れ」と言われた時にはさらに気持ちがガクッと落ちて……グラフも「100」から一気に「-100」まで下がりました(苦笑)。そんな失意の帰国でしたが、ちょっとした裏話があって。当時の俺は金髪。予定の便をキャンセルしての緊急帰国で、なおかつ金髪のスーツ姿……。「こんな格好で急遽帰るんだから、コイツは何かやったのかもしれない」と空港職員の方に思われてしまったらしく、経由地のフランクフルト空港では筋骨隆々の警官とシェパードに待ち構えられたり、荷物も全部ひっくり返されたり、本当に散々な目に遭いました(苦笑)。

写真=Jリーグ アカデミー時代を過ごしたベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)でメキメキと力をつけ、高校3年生にしてプロデビュー。年代別代表にも名を連ねた

#03
怖いモノなしの「絶頂期」
今明かされる“長居の悲劇”の裏話

 一度は「-100」に落ち込んだキャリアグラフですが、また徐々に上向いていきます。ケガも完治し、02年にFC東京へ期限付き移籍。完全移籍した03年には日本代表にも選んでもらって、自信もつきました。そんな右肩上がりの中で迎えた2度目の「100」は、2004年のアテネ・オリンピックの時です。この頃はクラブで練習していてもすごく楽しかったというか、「何でもできる!」という気持ちで、怖いモノなしでした。

 FC東京でスタメンをつかみ、アテネ五輪のアジア予選も突破して、意気揚々と本大会に臨んだんですが……組み分けられたグループが悪過ぎました(苦笑)。最終的に銀メダルのパラグアイと、銅メダルのイタリア。その2チームにグループリーグで1勝1分だったガーナですからね。本当に強豪揃いでした。

 でも、そんなガーナを相手に俺たちはグループリーグ最終戦で勝ったんです。結果的には銅メダルに輝いたイタリアですが、日本がガーナに勝たないと決勝トーナメントには進めない状況だったので、諦めて帰国の荷造りをしていたみたいですよ。「日本じゃ(ガーナに勝つのは)無理だろ」って(笑)。でも、そこで日本が勝って決勝トーナメントに行けたもんだから、一気にテンションが上がって3位にまで勝ち進めたんじゃないかなって思います(笑)。そのイタリアには、アルベルト・ジラルディーノをはじめ“バケモノ”が何人かいました。俺のキャリアの中でも一番インパクトが強い選手たちです。

 そんなアテネ五輪の後、クラブではナビスコカップ(現ルヴァンカップ)で優勝しました。まさにサッカー人生の絶頂期ですね。FC東京としても初優勝だったので、すごくうれしかったことを覚えています。

写真左=アフロ 写真右=Jリーグ 自ら「絶頂期」と振り返るのは2004年。アテネ五輪で日本代表の主力として奮闘し、クラブではナビスコカップ(現ルヴァンカップ)を制してFC東京に初タイトルをもたらした

 その翌年の“長居の悲劇”のことも、もちろん覚えています(※茂庭はFC東京の一員としてフル出場)。確か(1-1で迎えた)前半にセレッソがPKを外したんですよね。誰でしたっけ? あっ、ゼ・カルロスだ。当時の監督(小林伸二氏)がミーティングで「ザ・カルロス」って言っていたんですよね。この試合の話になると、いつもその話題になるんですけど、何回聞いても面白い(笑)。でも、もしもあのPKが入っていたら(セレッソの歴史は)本当に変わっていたかもしれない。実はあの時、俺はゼ・カルロスの足をちょっと触ったんですよ。というのも当時、俺がキッカーの足を触ると、かなりの確率でPKを外してくれていたので(笑)。だから、セレッソの初優勝を阻んだのは、もしかしたら俺かもしれません(苦笑)。

 でも、あの試合ですごく印象的だったのは、前半と後半でセレッソの空気が違ったことです。前半に対戦していて感じたのは「チャンピオンになるチームだ」ということ。意気込みや勢いがすごくて、本当に手がつけられなかった。森島(寛晃)さんもそうですけど、とにかく西澤(明訓)さんがすごくて、ファウルでも止められないくらいでした。だから前半は「これは今日、何点入れられるか分からないぞ」と思っていたんです。でも、後半になると雰囲気が変わってきて、硬さや判断の遅さが見られるようになり……。その時は分からなかったけど、今思えば、それが“勝てば優勝”という独特の状況で生まれるプレッシャーだったんでしょうね。

cover image cover image

波乱万丈。歓喜と失意に満ちた激闘譜

写真=写真=安田健示 文=文=小田尚史

桜の戦士たち一人ひとりにフォーカスし、そのサッカー人生の歩みを紐解いていく
ファンクラブ会報誌『TWELFTH』のウェブ限定コンテンツ「SAKURA BIOGRAPHY」。
チーム最年長の頼れる兄貴分・茂庭照幸の後編では、ドイツ・ワールドカップの裏話や
サッカー人生のどん底、そして思い描く未来や“夢”について語ってもらった。

※グラフは画像を左右にスライドさせて表示することができます。
茂庭自身がキャリアを振り返りながら作り上げたグラフ。激しい落差がいくつもあり、いかに壮絶なサッカー人生だったかが分かる

#04
ドイツW杯メンバー落選から一転
急転直下で訪れた、まさかのチャンス

 2003年に初めて招集されて以降、日本代表に選ばれる時はいつも追加招集でした。だから、正直なところドイツ・ワールドカップはそこまで意識していなかったんですけど、メンバー発表前はやっぱりドキドキしましたね(笑)。自宅で見ていたんですが、なかなか発表されなくて。練習に行く時間になったので移動したら、クラブハウスに着いた時にはもう発表されていて、そこで選ばれなかったことを知ったんです。「入らないだろうな」とは思っていたので「めちゃくちゃ悔しかった」という感じではなかったけど、やっぱりグラフ的には下がりますよね。

 後から聞いた話では、当時のジーコ監督が最後まで悩んでいたのが、俺とタマさん(玉田圭司選手)だったみたいです。後ろを1枚厚くするか、前を増やすか。その当落線上に、俺とタマさんがいたようです。結果、タマさんが選ばれたので「仕方ない、ハワイに行くか」と(笑)。

 ホノルルには夕方頃に着いて、知り合いの人が勧めてくれたお寿司屋さんに当時のチームメートの金沢浄さんと行って、めっちゃ飲みました(笑)。ホテルに戻ってからも飲んで、寝たのが深夜2時か3時くらい。そうしたら、朝5時にめちゃくちゃ電話が鳴って。鳴り方がハンパじゃなかったから「ヤバイ、何か日本でやらかしたかな?」って(笑)。強化部長からもめちゃくちゃ着信があったし、土肥(洋一氏)さんからも着信があって。落ち着くために、まずは土肥さんに電話しました。

 そこで「お前、日本でヤバいことになっているぞ」と言われるかと思ったら、「マコ(田中誠氏)がケガしたから準備しておけ」と。その後、一呼吸置いて強化部長に電話したら「今、どこにいる?」と聞かれたので「ホノルルです」と。「すぐ帰って来て」と言われ、すぐに荷造りして慌ただしく帰国しました。ホントに急展開ですよ。数時間でサッカー人生が急上昇しました。ホノルルから成田に着く数時間で、「-100」から「100」まで上がりましたね(笑)。

写真=安田健示 ドイツW杯開幕直前に追加招集を受けた当時の裏話を明かしてくれた茂庭。南国でのバカンスから一転、サッカー界における最高の舞台に立った

 ただ、当時の日本代表は最終ラインのスタメンがほぼ決まっていたので、追加招集で呼ばれた自分は「チームのために何ができるか」だけを考えていました。当時は代表メンバーの個性が強かったですが、「その縫い目をグイグイ行けるのは俺だろう。盛り上げ役に徹しよう。駒野(友一選手)じゃ力不足だろ」って(笑)。もちろん試合に出れば、やれる自信はありましたけど、たまたまアクシデントで合流したわけで、出番はないに等しいだろうと考えた上で、チーム内での役割として「いじられキャラに徹しよう。その役ができるのは俺しかいないだろ」と。

 大会前の決起集会でも、ひたすら悪態を突いてその場を盛り上げました。「おいヒデ(中田英寿氏)!」みたいな感じで(笑)。ツネさん(宮本恒靖氏)に対しても「ツネ、お前もケガしろよ。そうしたら俺が出られるから」とか(笑)。

 当時の代表メンバーは、仲は良かったですよ。みんなうまかったですしね。周りからの期待も高かったと思うし、自分自身、当時の代表には期待していました。それだけにグループリーグで敗退したことは残念でしたね。俺自身は、オーストラリアとの初戦でツボさん(坪井慶介選手)が負傷したことで急遽、試合に出ることになりましたが、少しフワフワしていた部分があったのかもしれません。

 (W杯メンバーから落選した後)一回、気持ちもリセットして(代表から気持ちも)離れていましたから。もちろん追加招集でも相当な覚悟を持って合流したけど、何て言うか、言葉で表現するのは難しいけど、自分の置かれた立場を考えたらプレーよりも、まずは「チームのために汚れ役を買って出よう。全力でチームをバックアップしよう」と思っていたところがあった。ただ、今思えば、最初から「サポート役に徹しよう」と考えるのではなく、「短い間でもポジションを奪って、仲間を削ってでも試合に出よう」というくらいの考えでチームに入っていれば、今こうやって話している内容も変わっていたのかもしれません。ただ、それでも、1試合でもW杯に出られたことは、自分のサッカー人生において何物にも代え難い財産になりました。

写真=Jリーグ ドイツW杯ではグループリーグ第1節のオーストラリア戦で途中出場。1-3で逆転負けを喫したが、「少しフワフワしていた部分があったかもしれない」と当時を振り返る

#05
予想もしていなかった「戦力外」
サッカー人生のどん底を味わう

写真=Jリーグ W杯以降はケガに苦しむ時期が続き、09年にはFC東京を戦力外に。「目の前が真っ暗になった」と語るほどのどん底を経験した

 ドイツW杯後、サッカー人生のグラフは徐々に下がっていきます。別に燃え尽き症候群的なことには全然ならなかったんですけど、この時期はとにかくケガが多かった。そして、FC東京から「戦力外」と言われた時(2009年)が、これまでのサッカー人生でどん底でした。

 当時の監督だった城福(浩氏)さんのサッカーは大好きでしたし、自分が指導者を目指すにあたって教えを請うとしたら、あの人だとも思っているんですけど、選手としての自分は城福さんにハマらなかった。自分の実力不足以外の何物でもないし、フィットしなかった自分が悪い。だから、折れ線グラフが下がっていくのは、試合に絡めない自分に対しての凹み具合です。

 前年(08年)もあまり試合に出ていなかったので、「ヤバイな」と思ったんですけど、まあまあ高く評価してもらって、契約を更新していました。(戦力外になった)09年も、最初は「来シーズンも契約する」という話になっていたんですけど、急に代理人から戦力外だと言われて……。「何で直接言ってくれないんだ」という思いもあったし、本当に目の前が真っ暗になりました。「-100」を振り切るくらい、一気にどん底まで落ち込みましたね。

 その09年には、2度目のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)優勝を果たしたんですけど、(04年の)1度目とは気持ちが全然違いました。04年は自分も貢献して、決勝にも出たので、すごくうれしかったんですけど、09年の決勝はメンバー外でしたからね。

 昨シーズン、セレッソでルヴァンカップを制覇した時も立場的には09年と同じでしたが、気持ちはセレッソで獲った昨シーズンのほうが数十倍うれしかった。もちろん、FC東京での2度目の優勝もうれしかったけど、メンバー外の選手同士で抱き合うほどではなかったというか。

 昨シーズンのルヴァンカップ決勝では、「俺たちの力でここまで来たんだぞ」という話をしつつ、(決勝のメンバーに入れなくて)埼玉スタジアムのスタンドで観ていた30代のおっさん同士が涙を流して抱き合いましたからね(笑)。今、思い出しても熱くなるものがあります。それくらい優勝が決まった瞬間はうれしかった。周りにセレッソサポーターもいましたけど、お構いなしで抱き合ったし、恥ずかしさも全くなかったです。

写真=Jリーグ W杯以降はケガに苦しむ時期が続き、09年にはFC東京を戦力外に。「目の前が真っ暗になった」と語るほどのどん底を経験した

#06
セレッソへの加入で再び上昇気流に
右肩上がりの未来には思い描く“夢”も

 話を戻すと、09年の暮れにFC東京を戦力外になった後、セレッソからオファーをもらったことで、グラフはまたグンと上がっていきます。確か、最初にオファーをくれたのがセレッソだったんです。他にもいくつかオファーをいただきましたが、すべてJ2だったんですよ。だからというわけじゃないけど、気持ちはすぐにセレッソで固まりました。嫁さんとも「やってやるぜ!」と2人で抱き合って喜んだことを覚えています。

 ただ、一度、ほんの数分、いや数秒だけカクッて(グラフが)下がった時がありました(笑)。勇んで大阪に来て、いよいよセレッソと契約するとなった時に契約書を見て「安っ!」って(苦笑)。もちろん拾ってもらった身なので条件については何も言えないし、覚悟を持って大阪に来たんですけど、やっぱりそこはプロですからね(笑)。

 でも、手を差し伸べてくれた当時の強化部長の梶野智さんには、今でも本当に感謝しています。もちろん、使ってくれたレヴィー(クルピ元監督)にも。セレッソに来て復活できたというか、自分のサッカー人生がまた上がっていきましたからね。

 セレッソに加入してからのことは皆さんもご存知のとおりです。折れ線グラフの最後が右肩上がりで終わっているのは、「ここからまた良くなっていこう」という希望です。選手としてもそうですけど、現役を引退した後もサッカーから離れるつもりはないので、その後の人生も含めて、こういうグラフになったらいいなと。

10年のセレッソ加入以降、本来の輝きを取り戻した茂庭。守備の柱、精神的支柱として、不屈の闘志でチームを支え、歴代所属クラブの中で最長となる在籍8年目に突入した

 実は、いつかは指導者になりたいと思っているんです。今までのサッカー人生で味わった経験値の振り幅は、他の選手よりもかなり大きいと思うし(笑)、そのぶん様々な状況の選手の気持ちが分かる。俺が通ってきた道と同じような境遇でもがいている選手を見たら、「俺も同じようなことを経験したから、気持ちは分かる。そういう時はこうだよ」と言えますしね。

 そういう場面は今までにもあって、同じことを言っても、俺から言われると説得力が違うと思うんですよ。いつかはそうやって指導者になりたいという“夢”があるんですけど、さっきも話したとおり、自分が苦しい時に手を差し伸べてくれた梶野さんには今でも感謝しているし、そういったチームを強化する立場や代理人業にも興味はあります。やっぱり人との出会いは大切だし、そういう出会いがあるかどうかで、サッカー人生の歩み方も変わっていきますからね。

 その“夢”に向かって何をすればいいか、正直まだよく分かっていないけど、プロサッカー選手である今は、ただひたすらサッカーを精いっぱいやって、いろいろな経験をすることが大切だと思っています。今シーズンはなかなか試合に出られず悔しい思いをしていますけど、それも5年、10年経った時に「あの時、歯を食いしばってやって良かった、ああいう時もあって良かったな」と思える期間にしたいですね。だから、これからもいつも気持ちはフラットにやっていきたいと思います。

shop image

取材協力店
Trattoria Pappa(トラットリア パッパ)

住所:〒550-0013 大阪府大阪市西区新町2-3-9
電話:06-6536-4188
営業時間:11:30~14:00/17:30~21:00(L.O)
定休日:日曜・第3月曜
HP:http://www.pappa.jp/